「人生において後悔はつきもの」
こう言い切りたくはないのだが、やはり後悔していることは多いのではないだろうか?
「あの時、社内の会議で自分の意思や意見をはっきり発言すれば良かった」
「あの時、あのタイミングで ”好きです” と伝えておけば良かった」
「喧嘩をした後、すぐに素直にあやまっておけば良かった」
「目先の収入ではなく、やりたい仕事をやれば良かった」
「あの時、あの人の助言を素直にきいておけば良かった」
「ずっと行きたかった場所に行っておけば良かった」
「ずっと会いたいと思っていた人に会いに行っていれば良かった」
「あの時、”これ欲しいなあ” と思ったものを購入しておけば良かった」
「あの時、発覚していた身体の異常を放置せず、すぐに治療すれば良かった」
「もっと勉強して、自分の人生の選択肢を増やしておけば良かった」
人は、年齢を重ねれば重ねる程、逃した機会が蓄積され、それはやがて大きな「後悔」となる。
私もその1人であることは否定できない。
そこで、この言葉。
【”死”は一人称では語れない】
これはどういうことか?
それは、自分は死んだわけだから、”私は死にました” とは当然言えないし思えないということである。
つまり、死を認識できるのは、死んだ人ではなく、それ以外の人間というわけだ。
皆、毎日当たり前のように夜寝て朝に起きる。そして無意識に目覚めることを前提として、翌日以降のスケジュールを立てる。
しかし「必ず目覚める」という保証がどこにあるのだろうか? そう、どこにもない。
ある日突然、永久に目覚めない状態がやってくる。それは、「死んでいる」か、限りなくそれに近い状態である。
人生はやりたいことをやり、楽しみ、成果や実績などを地道に積み上げて充実させていくもの。
しかし、それもある日突然、自分の意思に反して、志し半ばに「”終わり”との認識を自覚することもなく」終焉を迎える可能性があるのだ。
そう考えると、今現在、
我慢して嫌な仕事をしている人
劣悪な環境に身を置いている人
嫌な人間関係の中で鬱屈した毎日を送っている人
これらの話を聞くと、どうだろう、”確かにそんなことをしている場合ではない” と思いはしないだろうか?
広告「好機」を逃してはいないか?
「無理だ。今はできない」と自分に言い聞かせてはいないか?
他にも方法があるはずなのに、それを考えることを放棄したり、考えることができないほど疲弊してはいないだろうか?
人生は後戻りはできない。そして、「若さ」もやがて「老い」に変わっていく。
「今やりたいこと」
「今やった方が良いと思っているのにやれていないこと」
たとえ失敗しようが、自分が抱く「納得」が、それを打ち消していく。
何もしない「後悔」よりも、何かをやってみた「納得」が大事。
これから行動すること、それはあなた次第。
あくまでポジティブに。
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