最適な「行動意欲」を生み出すには?

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平穏な日々。

好んでこれを過ごす人もいれば、何かもの足りず、刺激を欲している人もいるだろう。

また、何かをしたいという漠然とした目標、あるいは確固たる目標が定まっているのにも関わらず、何かと理由をつけて動き出さない、動き出せない人はいないだろうか?

「今は忙しいから、また今度にしよう」

「まだ準備が出来ていなんだ。だからもっと準備が整ってからにしよう」

「これをしたい。だけど、失敗するかもしれない。みんなに批判されるかもしれない」

こんなふうに思って、やりたいことをついつい後回しにしてはいないだろうか?

心理学、行動心理学的に、目的や目標に対し最もモチベーションが高まり、行動できる最適な状態というのは、

【期待度(ワクワク感)】

【不安度(ドキドキ感)】

この割合が【50:50】と言われている。

期待が高まりすぎると、ワクワク感だけで満足してしまったり、不安の高さから生じる、いわゆる「刺激」の部分が弱くなる。

一方、不安が高まりすぎりと、準備は徹底できるが、当然、行動する意欲が減退してしまう。諦めてしまうことにもつながる。

よって、やりたいことを行動に移せるベストなタイミングというのは、「期待と不安のバランス」がほぼ均等になった時であり、

このちょうど「良くも悪くもどうなるか分からない状態」を生み出すことで、下層にある行動意欲を引っ張り上げていく。

まず、今の自分のモチベーションの割合を「スケーリング・クエスチョン※」で考えてみる。

※「スケーリングクエスチョン」とは、漠然としている今の自分の考えや状態や感覚を数値で可視化することである。

例えば、「期待8割、不安2割」であれば、もう少し考えられるリスクをピックアップしてみる。それにより「刺激」の割合も上がることになる。

逆に、「期待2割、不安8割」であれば、もっと目標に対してポジティブな情報を集めたり、達成した時の自分の姿をイメージしてみる。

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しかし、中には、このバランスが均等でなくとも、いわゆる「見切り発車」で行動に移せる人もいるだろう。

それはそれで悪くない。現に行動に移せているわけだから。

以前に何度も書いているが、「ワクワク感」にはリスクはつきものであるし、

「ドキドキ感」というリスクにも、「ワクワク感」といった期待が伴わなければ面白くない。

それらのバランスが整った時に最大、最適な「行動意欲」が生まれる。

行動に移す。

そのことの最大の収穫は、

【行動に移したことへの”満足感”】

結果が成功であろうと失敗であろうと

【”自分へ”の満足感】

【”自分だけ”の満足感】

【”自分なり”の満足感】

これらに勝るものなし。

それこそが人生。

あくまでポジティブに。

「トロッコ問題」から思うこと

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【トロッコ問題

これは1967年にイギリスの哲学者フィリッパ・フットが発表した論文で初めて提示された。

内容としては、「暴走するトロッコの進路を切り替えることで、5人の命を救う代わりに、1人の命を犠牲にすることが許されるかを問う倫理学上の思考実験」である。

つまり、多数を救うために少数を犠牲にすることの是非を問うているわけである。

これは、災害やパニック系のドラマや映画ではよくあるシチュエーションなので、比較的馴染みのある内容なのかもしれない。

ではこの「トロッコ問題」の正解はどちらなのか?

それは・・・「分からない」が正解。

なぜなら、自分が置かれている立場が違うからである。

例えば、日本国民という大きなものを守ろうする立場であれば、「大儀の為には、少数の犠牲はやむを得ない」と「ひとりの犠牲」を選択するだろうし、

「ひとりでも自分にとっては大切な人」と、家族や親友や恋人の立場では、「5人の犠牲」を選択するからだ。

だからこの問題に正解というものはない。

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そこでひとつ思うことがある。

【ひとりも犠牲者を出さないで済む選択肢は本当に無かったのだろうか?】

人は提示されている目の前の選択肢しかないと思う傾向がある。これはある意味「バイアスがかかっている状態」とも言える。

つまりだ。冷静さと余裕があれば、「トロッコの動きを止めてしまう」、「全員をその場から移動させる」という発想に至ったのかもしれない。

だから「冷静さと余裕」は常に必要なのだ。これは、「物事を客観視できる力」と言い換えることもできる。

何か困難にぶち当たった時、二者択一に陥った時、常に「第3の方法」を考えてみる。

「あの人ならどういった行動を取るだろうか?」このような考え方も有だろう。

そして、これらはあくまで「困難な状況」で限定すること。

なぜなら、好きなことで選択肢を増やすと、逆に満足度が低下してしまう可能性があるからだ。

緊迫した場面では、「時間がない」「人手が足りない」「どう考えてもこの2択しかない」。当然こんな思考に陥るのがほとんどであろう。

しかし、冷静さと余裕から、角度を変えたアイデアを出す。そして、自分の頭で、皆で考え、意見を出すことで、不可能が可能に変わる可能性もある。

緊迫した状態、脳が疲弊した状態。

これではいかなる場面でも、柔軟性を欠き、良い結果を招かない。

根を詰めすぎてはいけない

働きすぎてはいけない

悩みを抱えすぎてはいけない

普段の生活から、常に冷静さと余裕を持てる環境調整を心掛けよう。

それができれば、違った角度から物事が見えてくる。

あくまでポジティブに。

「JANE DOE(ジェーンドゥ)」に魅了され

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先日たまたま車で耳にしたこの曲。

米津玄師さん、宇多田ヒカルさんのデュエット曲のタイトル。

この言葉の意味。

これは、英語圏で身元不明の女性に仮に与えられる名前である。

男性では「JOHN DOE ジョン・ドゥ」と呼ばれる。

ある男性と名前も分からない女性。(以下、女性をジェーン)

ふたりだけの幻想的な世界。

ある男性は名前もない実体もないジェーンを追い求める。

でもそこには確かにジェーンの存在を感じる。

ジェーンは

「硝子の上を裸足のまま歩く」

ジェーンの足から

「痛むごとに血が流れて落ちていく」

ジェーンの願いは

「お願いその赤い足跡を辿って会いにきて」

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幻想なのか現実なのか

虚構なのか事実なのか

出会いなのか別れなのか

ユートピアなのかディストピアなのか

見えないジェーンを追い求めるある男性

限られた制限されたふたりだけの世界

あなたの人生の中で、このような世界観にとらわれたことはなかっただろうか?

人生とは計り知れない困難がある現実である

しかしこのような世界に身を置く時

得も言われぬ恍惚感に浸れる

時にこんなことを想う人生も悪くない

あくまでポジティブに

「バニスター効果」って?

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皆は、「バニスター効果」という現象を聞いたことはあるだろうか?

この「バニスター」というのは、イギリスの陸上選手である「ロジャー・バニスター」が由来である。

1923年に1マイルの世界記録保持者が記録したのが「4分10秒3」。

その後、その記録を打ち破る選手は現れず、その時代、

「4分を超えることは不可能だ」

「4分が人間の限界だ」

との風潮になり、長年の定説と化してしまっていた。

そこでロジャー・バニスター。彼が、その記録を破ることに果敢に挑戦し始めた。

医学部の大学生でもあるバニスターは過酷で厳しい練習を自分に課したのだ。

当然、世間は「そんなものができるわけがない」と批判した。

しかし、1954年5月6日、ついについにバニスターは、人類史上初「3分59秒4」という世界記録を更新したのだった。

これで「めでたし。めでたし」となるはずが、実はそうではない。この話の肝となる部分はここからなのだ。

この人類史上初の世界記録。

その後、一体いつ更新されたのか?

いわゆる「4分の壁」を突破するのに、30年はかかったという前提のもと、皆はどう予想するだろうか?

正解は・・・

【46日後】

約30年間、ずっと無理だと言われていた「4分の壁」を突破したと思ったら、わずか2ヶ月も経過しないうちに、新記録が出たのである。

これがいわゆる【バニスター効果】。

つまりだ。

「そんなことできるわけがない」

「到底無理だ」

という「思いこみ(バイアス)」で限界を決めていたのが、ひとりの「あきらめない人間」が果敢に挑戦したことで、正の連鎖、ポジティブな連鎖が発生したということなのだ。

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また、このバニスター効果は、「あの人に出来たなら、自分にも出来るはず」という思考とも言える。

逆に「自分にも出来たんだ。君もきっと出来るよ」という言い方もできる。

しかしこれでは、少し「上から目線」に聞こえてしまうかもしれない。

ならば、「同じ人間なんだ。きっと自分にもできるはずだ」と置き換えてみればどうだろう。

これなら違和感なく聞こえないだろうか?

こうやってお互い良い刺激を受けながら、限界を打ち破っていく。

もちろんこの現象は、決してスポーツの分野だけではなく、医療や開発など、この世の中のあらゆる分野にも共通していると言える。

そして、限界を打ち破ったあかつきには、

「よくやったよね」

「頑張ったよね」

「すごいよね」

と、一旦は相手をリスペクトすることを忘れてはいけない。それがまた良好な人間関係にもつながっていく。

自分の成長のためにも、身近にそんな現象を起こしてみては?

あくまでポジティブに。

「終わり」を意識することの重要性

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何かを始める時に、人は大きな成功や可能性、不安や恐れなどから、良くも悪くも気持ちは高ぶり、エネルギーに満ちあふれている。

この状態を大きなくくりでみると「ポジティブな状態」と言えるのだろう。

そして、始まりがあれば、いつか必ず終わりはくる。

私としては、むしろ「終わり」は「始まり」よりも重要ではないかと思っている。

この「終わり」についてどう捉えるか?

どのように「終わる」か?

昨今、確固たる人気や地位を築いたアイドルグループやバンドの解散や終了の話題をよく耳にする。

その理由としては、大体下記の2つのパターンに分かれる。

メンバーの不祥事などにより、そのファンを結果的に裏切る、悲しませるような「終わり方」になる場合。

そして「方向性の違いや価値観の相違」による脱退や解散については、ファンにしてみたら残念な話しではあるものの、アーティスト本人たちとしては、ある意味前向きな「終わり方」になる場合。

この終わり方の違いがもたらす周りへの影響は非常に大きい。

「始まり」があれば「終わり」が来る。

「絶頂期(ピーク)」もあれば「衰退期」もある。

物事は「栄枯盛衰」。

これは、恋人関係、夫婦関係、職場でも同様のことが言える。

そうであるはずなのに、あまりに皆「終わり」を意識しなさすぎてはいないだろうか?

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数年前のこのブログで私は、心理学者・行動経済学者の「ダニエル・カーネマン」が提唱した【ピーク・エンドの法則】というものについて述べたことがあった。

これは、人の記憶や印象の善し悪しは、その出来事の中で【最も高ぶった時(ピーク)】と【クライマックス(エンド)】だけで決定づけられるという内容である。

ピーク時は本人たちもファンも誰も傷つかない。「楽しい」「幸せ」なだけである。

しかし「エンド(終わり)」は違う。

ひとつ方法を間違えれば、ネガティブな結果となり、ピーク時の幸せな時期の印象でさえも「悪しき記憶」と化してしまう可能性がある。

古くから「終わりよければ全て良し」という言葉がある。

これはまさにその通りで、最期を意識して、自分を、自分を取り巻く人のことも考えた終わり方にすることで、大きなくくりではポジティブなものになる。

ポジティブに終わる。

すると、「人生の終わり」ではない限り、「その終わり」からまた次の何かが始まる。

惰性で終わるのではない。

悲しい終わり方でもいけない。

次の新たなステージにつながるよう、前向きに意図して終わるのである。

そう心掛けよう。

同調圧力からの回避

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学校での会議、職場での会議、家族や親戚での会議、町のコミュニティでの会議、スポーツチームや文化的団体での会議。

我々は、日常的にあらゆる会議に参加している。

フランクに話せる気軽な会議だと良いのだが、大抵はそうではないはず。

その中で確定した内容について、

「本当にこんなので良いのか?」

と首を傾げた経験はなかっただろうか?

それを後から誰かに言うと、「そう思っていたのなら、なぜ会議中に自分の意見を言わなかった?」とか、

もし意見が言えていたとしても、「なぜもっと説得力のある材料を準備しておかなかった?」とか反論されそうだ。

いやいや

力のある人間が、鶴の一声で決めてしまったりそのチーム、組織、団体の結束力が以上に高かったり、閉鎖的であるがゆえに、反対意見に対して聞く耳を持ってもらえなかったり。

そんな場で

「この方法で本当に良いのでしょうか?」

「こんなリスクは考えられませんか?」

などと言えるはずもない。

特に気が小さい人や、普段からあまり声を挙げないタイプの人間なら尚更だ。

このように個人だと明らかに間違ったことであると判断できるのに、集団だとそれが通ってしまうことを【集団的浅慮(せんりょ)】と言う。

仮に、その場の会議では「これは正しい結論」だったが、それを実践していけばいくほど右肩下がりになっていくとする。

ではすぐに軌道修正をするか、一旦取りやめることをすれば良いのだが、

「一度決めたことだから」

「これはあの人(力のある人)の意見だから」

と、たとえその方法がリスキーであることが判明した状態でも「継続」の姿勢をとってしまう。

これを【心理的拘泥(こうでい)現象】と言う。

ではそれを防ぐ方法はないのか?

実はこの現象を回避する手段が存在するのである。

それは、集団の中で【悪魔の擁護者】を設定すること。

【悪魔の擁護者】とは、「あえて反対意見を言う」ポジションをあらかじめ設けることで、反対意見を言いやすくし、あらゆるリスクなどを想定して、より建設的な結論に導かせる手法である。

但し、このポジションを設けるには、当然、中心人物や全員の理解や承諾を得ることが前提となる。

そのリーダー的存在が、あるいは各々が、どれだけチームや組織全体を良くしようという思いがあるのか?

皆で議論検討することの本来の意味は「いろんな角度から、いろんな意見から、よりベターな方向性を導き出す」ということだと思うのだが。

「リーダーがそう言うから」

「皆がそう言うから」

大なり小なり、組織やチームでは日常茶飯事的に【同調圧力】が発生している。

本当に全体を良くしようという思いがあるのなら

同調圧力ではなく

鶴の一声でもなく

いかに「フラットな意見を言える状態や環境を作り出せるか?」が鍵となる。

あくまでポジティブに。

「クーエの暗示法」〜どうせ考えるならポジティブに〜

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あるフランスの町での話。

そこにエミール・クーエという薬剤師が開業していた。

ある日、ひとりの男性が、「薬を欲しいから売ってくれ」と頼んだ。

しかしクーエの元にある薬は、たまたま使用期限が過ぎており、色も褪せていた。

クーエはその男性に事情を説明し、「売るわけにはいかない」と答えた。

するとその男性は、「その名前の薬は効くことを知っている。古くなっていても良いから売ってほしい」と懇願した。

クーエは、「分かった。でも責任は取れないから」と答えて、結局販売したのである。

後日、クーエの元にその男性が現れた。

その男性、「先日売ってもらったあの薬。おかげで病気が治った」とお礼を言って立ち去っていった。

クーエは頭をかかえた。

「なぜ効かないはずの薬が効いたんだ?」と。

そこでクーエはある仮説を打ち立てた。

【あの男性には”薬を飲めば病気は必ず治る”という意識が働いていたからではなだろうか?】と。

これらを【クーエの暗示法】という。

また【プラシーボ(偽薬)効果】はその一例である。

この【クーエの暗示法】の原則は2つ。

①人は一度に2つのことを考えられない。

ポジティブな考えとネガティブな考えは共存できない(だったら、ポジティブに考えた方が得)。

②心に満たされたいかなる思いは、現実となり行動に変わる。

つまり常に「自分はできる」という肯定的な思いを抱く、または常に唱えることで、不安は消え、そして抱えている問題も消えていくということ。

仕事や日常生活においての【できる・できない】。

つまり、これらは過去の経験や自信の有無から来る【思いこみ(バイアス)】なのである。

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新たな職場で不安な人

新たな生活環境で暮らし始めた人

恋愛や人間関係で悩んでいる人

重大な病気と闘っている人

もしあなたが、今、全く楽しめなかったり、不安に押しつぶされそうだったりする状態、つまりネガティブな思考に支配されているのであれば、

毎日、リラックスしているタイミングで、「私は毎日あらゆる面でますます良くなっている」を20回、唱えてみると良い。

そうやって自分に暗示をかけてみる。

「どうせそんなこと効果なんてないよ」

そのように思うの無理もない。

しかし、実践してみなけりゃ分からないし、継続してみなけりゃ分からないことだってある。

これはやった人だけが見えてくるかもしれない風景。

やがて脳があなたに味方する日が来るのかも?

やるかやらないかは…… 自分次第。

毎朝、通学中や通勤中で走っている人を見かける理由

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私は毎朝同じ時間に、私服やスーツ姿で走っている人とすれ違う。

その人は、表情に全く余裕がなく、必死の形相である。

おそらくいつも遅刻しかけ、いつもギリギリの状態なのだろう。

であれば、もう5分でも早めに自宅を出発する。もしくは、もう5分早く起きればいいのではないか?

私としてはそう思ってしまうのだが、「そんな簡単にできたら誰も苦労しない」と文句が返ってきそうである。

ではなぜ、毎日ギリギリになるのか?

その理由として2つ述べてみたい。

①結局、毎日何とかなっているから

学校でも職場でも「定時」というものは必ず存在しているが、それに間に合いさえすれば当然「遅刻」とはならない。

そう、たとえ自宅出発が出遅れても、”走れば間に合ってしまう”ことが「悪しき習慣」となっているわけだ。

これは、「少しでも早く起きること」と「全速力で走るしんどさ」とを比較した時に、「早く起きるのはしんどい」と無意識に走る方を選択してしまっている状態とも言える。

②何とか間に合うことで、脳にドーパミン分泌されるから

人の脳は、目標や欲求を満たした時に、「ドーパミン」という神経伝達物質が分泌される。これが分泌されると、人は「幸福感、元気、意欲、快楽」を感じることになる。何度もこの感覚を味わうから、また次も同じことをやってしまうのである。

では、どうしたら改善できるのか?それは、

①これらの成功体験を失敗体験にしてしまう

「間に合ってしまう」という成功を、自ら「間に合わなかった」とあえて失敗にもっていき、とんでもなく痛い目にあう。

つまり自力ではどうにもならない状態を、人から指摘されたり注意されることで「危機的な状況である」「迷惑をかけている」と自覚するということだ。

「うまくいったからまた次もやってしまう」という連鎖を早い段階で断ち切るわけである。

これは「万引き」や「盗撮行為」といった犯罪にも言えるのかもしれない。

②もっと他の方法で幸福感や意欲を高める

「全速力で走ったから間にあった」ではなく、「朝早起きして、早めに家を出発したから間にあった」にしていく。

さらに、早めに家を出て間にあった時は、自分自身で何かポイントのようなものをためておき、「10ポイントたまったらおいしいスイーツを買う」という方法でも良いだろう。

また、誰か仲の良い人に、「早く自宅を出たから間に合ったんだね。すごいね」と誉めてもらうようにお願いしておくという方法もある。

つまり、正しい行動の方に、より魅力的な報酬を用意しておき、もっと強烈なドーパミンを分泌させていくということだ。

これを継続していけば、良い習慣へ変化していく可能性が高まる。

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小さな成功体験を積み重ねていくこと。

それに達成感や充実感を感じていくこと。

これは【諸刃の剣】とも言える。

「良い習慣」に適用できるが、一方では「悪い習慣」にも適用できてしまうからだ。

もし悪しき習慣に陥った時、「自制すること」や「自力で何とかしようとすること」も大事。

しかし、自力ではどうにもならない時は、身近な人の手を借りることも考えてみよう。

皆、意外に同じようなことで悩んでいたりするものだ。

「良い習慣」を味方につけていこう。

あくまでポジティブに。

追うべきものが「結果」ではない理由

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イソップ童話「ウサギとカメ」。

誰もが一度は聞いたことはあるだろう。

山のふもとまで、かけっこで競争した結果、「カメの勝利に終わる」という意外な結末である。

足が速く、躍動感のあるウサギ

動きがとてもゆっくりなカメ

この勝負、明らかにウサギに分がある。

現に「俺の方が足が速い」と言ったのはウサギである。

しかし、一説によると、カメの方から「じゃあやってみようか」と勝負を挑んだとある。

これはどういうことなのか?

この時、カメは一体何を思っていたのか?

私としては、カメに勝算があったとは到底思えないのである。

感情的になってしまったのか?

それとも自暴自棄になったのか?

いやいやどうして、それは温厚なカメらしくない。

それではなぜか?

そこで私としては、こう考察する。

【そもそもカメは”勝ち負け”というマインドではなかったのではないか】と。

いくら何でも、カメだって、普通に勝負すれば負けることは分かっていたはずだ。

では「100%負けるのか?」と言われたら、そうではない。やってみなければ分からない部分もある。

きっと、カメとしては、「ウサギに勝とう」というのではなく、

【自分の力を出し切ろう。必ずゴールまで止まらずに行こう】という考えであったのではないだろうか?

その結果、ウサキが油断して、自滅することになり、カメの勝利となったのではと。

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この童話の本来の教訓としては、

ウサギ側としては、【いくら能力が高くでも油断してはならない。相手をあなどってはいけない】

カメ側としては、【明らかに負け勝負と思っていても、やってみなけりゃ分からないし、最後まで諦めてはいけない】といったところだろう。

しかし、私としては、

【どんな競争であっても、闘うのは相手ではなく常に自分。いかに自分の力をその場で出し切れるか? 出し切れた人だけに、幸運の女神が微笑むこともある】ということを付け加えたい。

この我々の社会生活において、勝負を意識し過ぎれば、結果を出そうと躍起になってしまっては、緊張や負荷がかかりすぎて、本来の自分の力が出せなくなる時が往々にしてある。

大事なのは、

競争の原理にとらわれることなく

無理に結果を追い求めず

目指すべきゴールに向かってひたすら淡々と粛々と行動していくこと。

成功すれば儲けもの

そのマインドで。

「パン」の偉大さ

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今まで、インスタでパンに触れたことはないのだが、実は私はパンが大好きだ。

何気なく、朝の道を歩いていると、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。

この香り

この香りがあると、食欲を刺激されるだけでなく、何とも心地よい、なぜか懐かしい気分になる。

そこで、ふと幼少期の記憶が蘇ってきた。

学校の夏休み。祖母の家に遊びに行っていた。少し年下のいとこと手をつなぎ、朝から祖母と買い物に出かけたあの時。

どこからともなく、パンの香りが。人生の経験なんてまだまだの、私のその嗅覚を猛烈に刺激した。

そして、その時のいとこと祖母と一緒に過ごしたその時間、その心地良さと何とも言えないパンの良い香りが相まって、強烈な幸福感として私の脳に刻み込まれた。

私のパン好きのルーツはそこにあった。

その後、大人になって、自由にパン屋さんを訪れ、自由に好きなパンを買えるようになった。

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全国には多種多様なパン屋さんがある。

チェーン店で手広くやっているパン屋さん

地域的密着型でやっておられるパン屋さん

定年後、ご夫婦で細々と続けておられるパン屋さん

こだわりを持ち、おひとりで続けておられるパン屋さん

障害者の就労継続支援の事業所でやっておられるパン屋さん

それぞれにそれぞれのカラーやコンセプトがある。

さらに、それらのパン屋さんで作られるパンもまた様々。

ボリュームがあり斬新な具材を駆使したパン

見た目はシンプルだが、生地や中身にこだわったパン

色や形で子どもたちに楽しんでもらうパン

私なんか、いざパン屋さんを訪れると、ワクワクして、我を忘れ、全部食べたくなってしまう笑

朝起きづらい人が、「朝には美味しいパンがあるから」と言って、それを起きる原動力にしているという話もよく耳にする。

私はそれくらいパンには魅力があると思っている。パンには人を幸せをする力がある。

かなり朝早い時間から仕込などの準備をして皆の朝ご飯に間に合うように焼き上げてくれているパン屋さんを、私は純粋にリスペクトしている。

だからこそ、「競争」という形で淘汰されるのではなく、どうか「共存」していって欲しい。たくさんのパン屋さんを残して欲しい。

好きなものは、人生の軸になる。

メンタルの安定にもつながる。

私がポジティブでいられるのは、あなた方、パン屋さんの努力のおかげであるといっても過言ではない。