「終わり」を意識することの重要性

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何かを始める時に、人は大きな成功や可能性、不安や恐れなどから、良くも悪くも気持ちは高ぶり、エネルギーに満ちあふれている。

この状態を大きなくくりでみると「ポジティブな状態」と言えるのだろう。

そして、始まりがあれば、いつか必ず終わりはくる。

私としては、むしろ「終わり」は「始まり」よりも重要ではないかと思っている。

この「終わり」についてどう捉えるか?

どのように「終わる」か?

昨今、確固たる人気や地位を築いたアイドルグループやバンドの解散や終了の話題をよく耳にする。

その理由としては、大体下記の2つのパターンに分かれる。

メンバーの不祥事などにより、そのファンを結果的に裏切る、悲しませるような「終わり方」になる場合。

そして「方向性の違いや価値観の相違」による脱退や解散については、ファンにしてみたら残念な話しではあるものの、アーティスト本人たちとしては、ある意味前向きな「終わり方」になる場合。

この終わり方の違いがもたらす周りへの影響は非常に大きい。

「始まり」があれば「終わり」が来る。

「絶頂期(ピーク)」もあれば「衰退期」もある。

物事は「栄枯盛衰」。

これは、恋人関係、夫婦関係、職場でも同様のことが言える。

そうであるはずなのに、あまりに皆「終わり」を意識しなさすぎてはいないだろうか?

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数年前のこのブログで私は、心理学者・行動経済学者の「ダニエル・カーネマン」が提唱した【ピーク・エンドの法則】というものについて述べたことがあった。

これは、人の記憶や印象の善し悪しは、その出来事の中で【最も高ぶった時(ピーク)】と【クライマックス(エンド)】だけで決定づけられるという内容である。

ピーク時は本人たちもファンも誰も傷つかない。「楽しい」「幸せ」なだけである。

しかし「エンド(終わり)」は違う。

ひとつ方法を間違えれば、ネガティブな結果となり、ピーク時の幸せな時期の印象でさえも「悪しき記憶」と化してしまう可能性がある。

古くから「終わりよければ全て良し」という言葉がある。

これはまさにその通りで、最期を意識して、自分を、自分を取り巻く人のことも考えた終わり方にすることで、大きなくくりではポジティブなものになる。

ポジティブに終わる。

すると、「人生の終わり」ではない限り、「その終わり」からまた次の何かが始まる。

惰性で終わるのではない。

悲しい終わり方でもいけない。

次の新たなステージにつながるよう、前向きに意図して終わるのである。

そう心掛けよう。

同調圧力からの回避

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学校での会議、職場での会議、家族や親戚での会議、町のコミュニティでの会議、スポーツチームや文化的団体での会議。

我々は、日常的にあらゆる会議に参加している。

フランクに話せる気軽な会議だと良いのだが、大抵はそうではないはず。

その中で確定した内容について、

「本当にこんなので良いのか?」

と首を傾げた経験はなかっただろうか?

それを後から誰かに言うと、「そう思っていたのなら、なぜ会議中に自分の意見を言わなかった?」とか、

もし意見が言えていたとしても、「なぜもっと説得力のある材料を準備しておかなかった?」とか反論されそうだ。

いやいや

力のある人間が、鶴の一声で決めてしまったりそのチーム、組織、団体の結束力が以上に高かったり、閉鎖的であるがゆえに、反対意見に対して聞く耳を持ってもらえなかったり。

そんな場で

「この方法で本当に良いのでしょうか?」

「こんなリスクは考えられませんか?」

などと言えるはずもない。

特に気が小さい人や、普段からあまり声を挙げないタイプの人間なら尚更だ。

このように個人だと明らかに間違ったことであると判断できるのに、集団だとそれが通ってしまうことを【集団的浅慮(せんりょ)】と言う。

仮に、その場の会議では「これは正しい結論」だったが、それを実践していけばいくほど右肩下がりになっていくとする。

ではすぐに軌道修正をするか、一旦取りやめることをすれば良いのだが、

「一度決めたことだから」

「これはあの人(力のある人)の意見だから」

と、たとえその方法がリスキーであることが判明した状態でも「継続」の姿勢をとってしまう。

これを【心理的拘泥(こうでい)現象】と言う。

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ではそれを防ぐ方法はないのか?

実はこの現象を回避する手段が存在するのである。

それは、集団の中で【悪魔の擁護者】を設定すること。

【悪魔の擁護者】とは、「あえて反対意見を言う」ポジションをあらかじめ設けることで、反対意見を言いやすくし、あらゆるリスクなどを想定して、より建設的な結論に導かせる手法である。

但し、このポジションを設けるには、当然、中心人物や全員の理解や承諾を得ることが前提となる。

そのリーダー的存在が、あるいは各々が、どれだけチームや組織全体を良くしようという思いがあるのか?

皆で議論検討することの本来の意味は「いろんな角度から、いろんな意見から、よりベターな方向性を導き出す」ということだと思うのだが。

「リーダーがそう言うから」

「皆がそう言うから」

大なり小なり、組織やチームでは日常茶飯事的に【同調圧力】が発生している。

本当に全体を良くしようという思いがあるのなら

同調圧力ではなく

鶴の一声でもなく

いかに「フラットな意見を言える状態や環境を作り出せるか?」が鍵となる。

あくまでポジティブに。

「クーエの暗示法」〜どうせ考えるならポジティブに〜

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あるフランスの町での話。

そこにエミール・クーエという薬剤師が開業していた。

ある日、ひとりの男性が、「薬を欲しいから売ってくれ」と頼んだ。

しかしクーエの元にある薬は、たまたま使用期限が過ぎており、色も褪せていた。

クーエはその男性に事情を説明し、「売るわけにはいかない」と答えた。

するとその男性は、「その名前の薬は効くことを知っている。古くなっていても良いから売ってほしい」と懇願した。

クーエは、「分かった。でも責任は取れないから」と答えて、結局販売したのである。

後日、クーエの元にその男性が現れた。

その男性、「先日売ってもらったあの薬。おかげで病気が治った」とお礼を言って立ち去っていった。

クーエは頭をかかえた。

「なぜ効かないはずの薬が効いたんだ?」と。

そこでクーエはある仮説を打ち立てた。

【あの男性には”薬を飲めば病気は必ず治る”という意識が働いていたからではなだろうか?】と。

これらを【クーエの暗示法】という。

また【プラシーボ(偽薬)効果】はその一例である。

この【クーエの暗示法】の原則は2つ。

①人は一度に2つのことを考えられない。

ポジティブな考えとネガティブな考えは共存できない(だったら、ポジティブに考えた方が得)。

②心に満たされたいかなる思いは、現実となり行動に変わる。

つまり常に「自分はできる」という肯定的な思いを抱く、または常に唱えることで、不安は消え、そして抱えている問題も消えていくということ。

仕事や日常生活においての【できる・できない】。

つまり、これらは過去の経験や自信の有無から来る【思いこみ(バイアス)】なのである。

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新たな職場で不安な人

新たな生活環境で暮らし始めた人

恋愛や人間関係で悩んでいる人

重大な病気と闘っている人

もしあなたが、今、全く楽しめなかったり、不安に押しつぶされそうだったりする状態、つまりネガティブな思考に支配されているのであれば、

毎日、リラックスしているタイミングで、「私は毎日あらゆる面でますます良くなっている」を20回、唱えてみると良い。

そうやって自分に暗示をかけてみる。

「どうせそんなこと効果なんてないよ」

そのように思うの無理もない。

しかし、実践してみなけりゃ分からないし、継続してみなけりゃ分からないことだってある。

これはやった人だけが見えてくるかもしれない風景。

やがて脳があなたに味方する日が来るのかも?

やるかやらないかは…… 自分次第。

毎朝、通学中や通勤中で走っている人を見かける理由

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私は毎朝同じ時間に、私服やスーツ姿で走っている人とすれ違う。

その人は、表情に全く余裕がなく、必死の形相である。

おそらくいつも遅刻しかけ、いつもギリギリの状態なのだろう。

であれば、もう5分でも早めに自宅を出発する。もしくは、もう5分早く起きればいいのではないか?

私としてはそう思ってしまうのだが、「そんな簡単にできたら誰も苦労しない」と文句が返ってきそうである。

ではなぜ、毎日ギリギリになるのか?

その理由として2つ述べてみたい。

①結局、毎日何とかなっているから

学校でも職場でも「定時」というものは必ず存在しているが、それに間に合いさえすれば当然「遅刻」とはならない。

そう、たとえ自宅出発が出遅れても、”走れば間に合ってしまう”ことが「悪しき習慣」となっているわけだ。

これは、「少しでも早く起きること」と「全速力で走るしんどさ」とを比較した時に、「早く起きるのはしんどい」と無意識に走る方を選択してしまっている状態とも言える。

②何とか間に合うことで、脳にドーパミン分泌されるから

人の脳は、目標や欲求を満たした時に、「ドーパミン」という神経伝達物質が分泌される。これが分泌されると、人は「幸福感、元気、意欲、快楽」を感じることになる。何度もこの感覚を味わうから、また次も同じことをやってしまうのである。

では、どうしたら改善できるのか?それは、

①これらの成功体験を失敗体験にしてしまう

「間に合ってしまう」という成功を、自ら「間に合わなかった」とあえて失敗にもっていき、とんでもなく痛い目にあう。

つまり自力ではどうにもならない状態を、人から指摘されたり注意されることで「危機的な状況である」「迷惑をかけている」と自覚するということだ。

「うまくいったからまた次もやってしまう」という連鎖を早い段階で断ち切るわけである。

これは「万引き」や「盗撮行為」といった犯罪にも言えるのかもしれない。

②もっと他の方法で幸福感や意欲を高める

「全速力で走ったから間にあった」ではなく、「朝早起きして、早めに家を出発したから間にあった」にしていく。

さらに、早めに家を出て間にあった時は、自分自身で何かポイントのようなものをためておき、「10ポイントたまったらおいしいスイーツを買う」という方法でも良いだろう。

また、誰か仲の良い人に、「早く自宅を出たから間に合ったんだね。すごいね」と誉めてもらうようにお願いしておくという方法もある。

つまり、正しい行動の方に、より魅力的な報酬を用意しておき、もっと強烈なドーパミンを分泌させていくということだ。

これを継続していけば、良い習慣へ変化していく可能性が高まる。

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小さな成功体験を積み重ねていくこと。

それに達成感や充実感を感じていくこと。

これは【諸刃の剣】とも言える。

「良い習慣」に適用できるが、一方では「悪い習慣」にも適用できてしまうからだ。

もし悪しき習慣に陥った時、「自制すること」や「自力で何とかしようとすること」も大事。

しかし、自力ではどうにもならない時は、身近な人の手を借りることも考えてみよう。

皆、意外に同じようなことで悩んでいたりするものだ。

「良い習慣」を味方につけていこう。

あくまでポジティブに。

追うべきものが「結果」ではない理由

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イソップ童話「ウサギとカメ」。

誰もが一度は聞いたことはあるだろう。

山のふもとまで、かけっこで競争した結果、「カメの勝利に終わる」という意外な結末である。

足が速く、躍動感のあるウサギ

動きがとてもゆっくりなカメ

この勝負、明らかにウサギに分がある。

現に「俺の方が足が速い」と言ったのはウサギである。

しかし、一説によると、カメの方から「じゃあやってみようか」と勝負を挑んだとある。

これはどういうことなのか?

この時、カメは一体何を思っていたのか?

私としては、カメに勝算があったとは到底思えないのである。

感情的になってしまったのか?

それとも自暴自棄になったのか?

いやいやどうして、それは温厚なカメらしくない。

それではなぜか?

そこで私としては、こう考察する。

【そもそもカメは”勝ち負け”というマインドではなかったのではないか】と。

いくら何でも、カメだって、普通に勝負すれば負けることは分かっていたはずだ。

では「100%負けるのか?」と言われたら、そうではない。やってみなければ分からない部分もある。

きっと、カメとしては、「ウサギに勝とう」というのではなく、

【自分の力を出し切ろう。必ずゴールまで止まらずに行こう】という考えであったのではないだろうか?

その結果、ウサキが油断して、自滅することになり、カメの勝利となったのではと。

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この童話の本来の教訓としては、

ウサギ側としては、【いくら能力が高くでも油断してはならない。相手をあなどってはいけない】

カメ側としては、【明らかに負け勝負と思っていても、やってみなけりゃ分からないし、最後まで諦めてはいけない】といったところだろう。

しかし、私としては、

【どんな競争であっても、闘うのは相手ではなく常に自分。いかに自分の力をその場で出し切れるか? 出し切れた人だけに、幸運の女神が微笑むこともある】ということを付け加えたい。

この我々の社会生活において、勝負を意識し過ぎれば、結果を出そうと躍起になってしまっては、緊張や負荷がかかりすぎて、本来の自分の力が出せなくなる時が往々にしてある。

大事なのは、

競争の原理にとらわれることなく

無理に結果を追い求めず

目指すべきゴールに向かってひたすら淡々と粛々と行動していくこと。

成功すれば儲けもの

そのマインドで。

「パン」の偉大さ

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今まで、インスタでパンに触れたことはないのだが、実は私はパンが大好きだ。

何気なく、朝の道を歩いていると、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。

この香り

この香りがあると、食欲を刺激されるだけでなく、何とも心地よい、なぜか懐かしい気分になる。

そこで、ふと幼少期の記憶が蘇ってきた。

学校の夏休み。祖母の家に遊びに行っていた。少し年下のいとこと手をつなぎ、朝から祖母と買い物に出かけたあの時。

どこからともなく、パンの香りが。人生の経験なんてまだまだの、私のその嗅覚を猛烈に刺激した。

そして、その時のいとこと祖母と一緒に過ごしたその時間、その心地良さと何とも言えないパンの良い香りが相まって、強烈な幸福感として私の脳に刻み込まれた。

私のパン好きのルーツはそこにあった。

その後、大人になって、自由にパン屋さんを訪れ、自由に好きなパンを買えるようになった。

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全国には多種多様なパン屋さんがある。

チェーン店で手広くやっているパン屋さん

地域的密着型でやっておられるパン屋さん

定年後、ご夫婦で細々と続けておられるパン屋さん

こだわりを持ち、おひとりで続けておられるパン屋さん

障害者の就労継続支援の事業所でやっておられるパン屋さん

それぞれにそれぞれのカラーやコンセプトがある。

さらに、それらのパン屋さんで作られるパンもまた様々。

ボリュームがあり斬新な具材を駆使したパン

見た目はシンプルだが、生地や中身にこだわったパン

色や形で子どもたちに楽しんでもらうパン

私なんか、いざパン屋さんを訪れると、ワクワクして、我を忘れ、全部食べたくなってしまう笑

朝起きづらい人が、「朝には美味しいパンがあるから」と言って、それを起きる原動力にしているという話もよく耳にする。

私はそれくらいパンには魅力があると思っている。パンには人を幸せをする力がある。

かなり朝早い時間から仕込などの準備をして皆の朝ご飯に間に合うように焼き上げてくれているパン屋さんを、私は純粋にリスペクトしている。

だからこそ、「競争」という形で淘汰されるのではなく、どうか「共存」していって欲しい。たくさんのパン屋さんを残して欲しい。

好きなものは、人生の軸になる。

メンタルの安定にもつながる。

私がポジティブでいられるのは、あなた方、パン屋さんの努力のおかげであるといっても過言ではない。

「親ガチャ」は平等か?不平等か?

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最近ではよく耳にする人も多いだろうこの言葉。

これは、親や家庭環境が子どもの人生に大きな影響を与えるにも関わらず、

「子どもは親を選べない」

「どのような環境に生まれるかは運任せ」

ということを、

アイテムを引くまで中身がわからない玩具やゲームの「ガチャ」を例えて表現したものである。

では、この「親ガチャ」は平等なのか?それとも不平等なのか?

ここでまず、

「良い親/良い家庭環境」とは?

「悪い親/悪い家庭環境」とは?

これを考えてみたい。

【良い家庭環境】=お金持ち、家柄が良い、両親の仲が良い、家が大きい、有名人、社会的地位がある、高学歴、容姿端麗、コミュニケーション力が高い、人気者、友人知人が多い、人当たりが良い、優しい、健康

【悪い家庭環境】=貧乏、家柄が悪い、壊れそうな小さい家、低学歴、社会的には認知されにくい職業、親の見た目が醜い、支配的、暴力的、過干渉、友人知人が少ない、両親が不仲、不健康、病的

どうだろう?

単純に考えれば、

良い環境に生まれたら「お父さんお母さん、自分を生んでくれてありがとう!」となり、

悪い環境に生まれたら「何で自分はこんなところに生まれてきたのだろう。自分を生んだ親を恨む。自分は不幸でしかない」となるだろうか?

かくゆう私が生まれてきた家庭も、決して良い環境とは言えず、相当苦労してきたうちのひとりだ。「何で自分はここに生まれてきたのか?」と嘆いたことがなかったかと言えば嘘になる。

これらはあくまで「単純」に考えた場合で、例えば、

貧乏でも温かみのある家庭なら幸せだと感じることもあるだろうし、

お金持ちでも家柄が良くても、親が支配的で自由を束縛されることもあるはず。

良い要素も悪い要素も、生まれてきた自分の価値観によるところもあり、一概には判断できないこともある。

これは仕事や結婚観とも似ているのかもしれない。

「給料は安いが、人間関係は良好」な会社。

「見た目も収入もイマイチ、だけども相性はピッタリな伴侶」

100%良い悪いはない。

要は「これだけは譲れないポイント」「優先順位」というものがあり、

それが満たされればOK、ということだと思うのである。

だが現実的には、

「毒親からの虐待から逃れられない」

「この家庭に居ることがマイナスでしかない」

「こんな家庭に生まれ、不幸でしかない」

そういう被害を受けている、あるいは不幸に思っている人も多いだろう。

毒親から被害を受けすぎて、脳が正常に働かず、柔軟な思考を奪われていることも。

ただ、これで終わってしまってはいけない。

世の中には、何らかの救済措置があったり、自分からアクションを起こすことで、マイナスの人生から脱却できるチャンスが必ずあるはずだからだ。

確かにそう簡単にはいかないかもしれない。

だが【悪い家庭環境=不幸な人生】。そう決めつけてしまうにはまだ早い。

一旦そう思うと、脳にバイアスがかかり、ネガティブな情報ばかりに気を取られ、更なる悪循環を招いてしまう。

「人はどこの家庭に生まれてくるかは分からない。選べない」

誰しも家庭を選べないわけだから、

厳密に言えば「親ガチャ」自体は「平等」と言える。

もっと言え

自分が不幸だと思う家庭に生まれてきても、

どうにかして誰かに助けを求めたり、自分の頭で考えて行動に起こすことは出来るはず。

これを「するしないの選択肢」を選ぶのは紛れもない自分の権利であり、これすなわち「平等」なのではないだろうか?

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私も、親のせいにしたことがあった。

親を恨んだこともあった。

しかし、このままだとダメだとも思った。

何も変わらないと思った。

だから人に助けを求めつつ、助けられつつ、自分で努力もしてきた。

「今の親(家庭)が辛い」

「劣悪な環境に身を置いている」

「逃げ出したい」

そんな方々へ。

一度しかない自分の人生を、決してあきらめてはいけない。

人生は最後までどうなるか分からない。

最後には笑おう。

あくまでポジティブに。

あなたの周りの自信過剰な人たち

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あなたを含め、あなたの身の回りに、極端に自己評価が高い人はいないだろうか?

それは「単に評価が高い人」ではなく、「たいして実力もないのに自信がある人」である。「根拠の無い自信が強い人」とも言えるだろう。

このように、他者評価はすこぶる低いのにも関わらず、自身を過大に評価してしまう状態を「ダニング・クルーガー効果」と言う。

これは1999年、心理学である「デヴィット・ダニング」と「ジャスティン・クルーガー」によって提唱された、一種の「認知バイアス」である。

仕事でも趣味でも、新しい知識を得たり、最初にたまたまうまくいった場合に、この認知バイアスは発生しやすい。

まだ何かをやり始めたばかりの時点で、

「俺ってスゴイじゃん!」

「こんなの余裕、余裕」

と思ってしまう時がある。

しかしこれは紛れもない「錯覚」であり、「過大評価」に他ならない。

なぜなら、やはり物事の真の実力とは、何度も失敗して、継続しつつ、壁を乗り越えたからこそ獲得できるものだと思っているからだ。

物事の最初というのは、いわゆる「さわりの部分」であり、当然「全体」ではない。

よって、全体に対して

自信がある状態というのはおかしいわけである。

このダニングクルーガーは次のように段階的に表せる。

①思いこみの段階

②思いこみだったと知る段階

③真の自信を持ち始める段階

④更に学びを深め、正しい評価が行える段階

このように認知バイアスが外れていけば、過大評価ではなく、正しい自己評価となっていけるのだが、そうでなければ、いろんな支障が出てしまうことになる。

例えば、

①「責任転嫁」の問題

自分は高評価なわけだから、何か問題が発生しても、それは自分ではなく「他者のせいだ」と思ってしまう。

②「コミュニケーション」の問題 

こうなると、当然コミュニケーションもうまく図れなくなっていく。

③「間違った評価」の問題

自分を正当に評価できる目がないということは、他者に対しても同様である。そこから軋轢も生じる。

④「成長ができない」問題

今で充分高い評価となると、「もっと頑張ろう」というモチベーションが上がらず、成長がストップしてしまう。

⑤「騙されやすくなる」問題

正当な評価ができていないわけだから、善悪は真偽の判断ができなくなる。

⑥「壁を乗り越えられない」問題 

何か問題が起きたとして、挑戦するも、実際の実力のギャップから、極端なじこ否定に陥る可能性がある。

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どうだろう?

「こんなに問題があるの?」

「確かに近くにいるわ、こんな人」

「これ、私かも?」と思った人多いのでは?

では、この認知バイアスに陥りやすい人とは、どんな人なのだろう?

それは、

①人の助言を受け入れない人

②他責思考の人

③問題が発生しても原因を追求しない人

そして、ダニングクルーガー効果に陥らないためには、

①自分を客観的に見る

自分を別の高い次元から見る、いわゆる「メタ認知」の状態を作り出す。

②数値化する 

ダニング・クルーガー効果に陥っている人は、いわゆる「根拠の無い自信」を軸に動いている。それを「根拠のある状態」にしていくわけである。

③問題発生時は原因を探る

真の原因は「自分なのか?」「他人なのか?」「双方なのか?」これを掘り下げていく。

④人の意見に耳を傾ける 

上記①にもつながるが、やはり人の意見を一旦聞き入れることが、「自分を客観的に見る」ことにつながる。

ここで言っておくが、ダニング・クルーガー効果が100%デメリットとは言い切れない。

なぜなら、自信がない人や、失敗を恐れて行動できないより、「根拠の無い自信」で自分を奮い立たせば、何かに挑戦するモチベーションになるからだ。

今の自分の性格に合わせて、あえて「認知バイアス」を利用するなら、それも有なのかもしれない。

要は「バランス」。

他者の意見に耳を傾けること。

そして自身の「メタ認知能力」を鍛えること。

それらを利用したり身につけることで、自身の今の状態を把握したり、正当な評価を得ることができるはずだ。

真の自分を知ろう。

あくまでポジティブに。

「相棒」の定義

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私は最近、この「相棒」という言葉が気になっている。

相棒というと、何となく「仲の良いパートナー」とも言えるのだろうが、

私としては、もっと強固な関係性と認識している。

  

私が今思いつく相棒の例として、

 ・「ルパン三世」と「次元大介」

 ・「シャーロック・ホームズ」と「ワトソン」

 ・ドラマ【相棒】の「杉下右京」と「亀山薫」

 ・アニメ【シティーハンター】の「冴羽遼←※遼はけものへん」と「槇村香」

 ・島田荘司さんの小説【御手洗潔シリーズ】の「御手洗潔」と「石岡和己」

 ・ドラマ【MIU404】の「志摩一未」と「伊吹藍」

  

こう見ると、探偵ものや刑事ものが多いのが分かる。

やはり危険にさらされるのと、生死に直面する場面が多いのがその理由だろう。

  

そこで私が思う「相棒」の定義は以下のとおりだ。

 ①対等な関係性

 ②得意不得意の相互の凸凹感

 ③絶対的な信頼感

 ④相手に対するリスペクトの念

 ⑤何があっても相手を助けようとする思い

  

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①対等な関係性

 ここでいう「対等」とは、立場の違い、年齢差、性の違いを超えた、あくまで【心理的なもの】である。また、決して「主従関係」ではない。

  

②得意不得意の相互の凸凹感

 やはりこれは、不得手を相互に補う「歯車の論理」」と捉える。

  

③絶対的な信頼感

 「あいつならおそらくこう思うはずだ」「あの人なら必ずこういう行動をとるだろう」という、確信めいた思い。

  

④相手に対するリスペクトの念

 これは②の相互の得意不得意によるものとも言えるが、「自分にできないことを相手ができる」。これを「妬み」や「嫉妬」と捉えてしまうと「相棒」とは言えない。

  

⑤何があっても相手を助けようとする思い

 「一心同体」、「一蓮托生」。これは③の「相手をリスペクトする思い」の上に成り立っている。片方がピンチになった時に必ず助ける。決して「貸し借り」の論理ではなく、これらは「無償」である。

  

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どうだろう?

あなたの身の回りにこのように「相棒」と呼べる存在はいるだろうか?

  

危険にさらされる場面や生死が関わる場面は、そうそうないだろうが、例えば、

「大きなプロジェクトを一緒に乗り越えた」

「お互いに声を掛け合いながら、一緒にフルマラソンを走り切った」

「ある事業やお店を二人三脚で切り盛りしている」

「病魔におかされている側の努力と看病する側の献身力で難病を乗り越えた」

「プロット考案と絵を描く役割のもと、一緒にひとつの作品(漫画や絵本)を完成させた」

  

これらのような場面、関係性ならあり得るかもしれない。

①から⑤までの定義の全てを満たす関係性はあくまで理想。

しかし、どれかひとつだけでも満たすことができれば、もはやそれは「相棒」と呼べるのかもしれない。

  

普段の信頼関係の構築や尊敬の念を抱くのが先か?

はたまた

大きな難局を共に乗り越えたからこそ成立した関係性なのか?

  

いずれにせよ、もしそのような「相棒」と呼べる存在に出会えたとしたら、

あなたの人生は大きく変わるかもしれない。

あきらめた時に幸運が舞い込んでくる理由

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ずっとずっと努力し続けていたが、

「もうこれ以上無里だ」

と思ってあきらめた途端にチャンスや幸運が舞い込んでくる。

このようなことを経験した人はいないだろうか?

これはなぜなのだろう?

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まず考えられることとして、

【ようやく結果が出ようとする、そのタイミングであきらめたから】

毎日毎日、

「早く結果がでないかなあ」

「いつ結果が出るんだ」

と意識し過ぎていたり、ヤキモキしていても、結果というものはそう簡単に出るわけでない。

人は、期待しすぎていたり、待っている時には長く感じてしまうもの。

それに耐えきれず一旦あきらめの境地に立った時、

「結果を求めること」を一旦忘れることになる。

そして忘れた頃に努力が実り、舞い込んできたチャンスや幸運が、際立って認識されるのだ。

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2つ目に考えられることは、

【あきらめた時に、肩の力が抜けたから】

いつも結果を出そうと”必死に”行動したりしていると、逆にうまくいかなかったりする。

相手があることなら尚更だ。相手が逆に引いてしまったりする。

しかし、「もうあきらめようかな…」と思うと、その必死さは丁度良い加減になり、事がスムーズに運んでいく。こんなことがある。

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この2つに共通していることは、

・努力を惜しまずに継続してきたということ。

・「結果を出す」「結果を期待する」など、結果に対しての意識を薄めたということ。

【結果】とは、常日頃から淡々と粛々と努力を継続できた人にだけ与えられる「ボーナス」のようなものである。

あくまで「ボーナス」なわけだから、”絶対にもらえる”という定義ではない。

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冒頭に「あきらめる」と述べたが、

これは「結果を求めること」をあきらめるという意味であり、

決して【努力すること】をあきらめるということではない。

つまり、「結果」への意識を高めるのではなく、

結果へつながる【手段や方法】への意識や精度を高めていくべきなのだ。

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難関大学に合格するには?

結婚するには? 恋人を作るには?

スポーツ大会で優勝するには?

プロのアーティストになるには?

小説や絵画で大賞を獲得するには?

仕事でプレゼンを成功させるには?

大病や難病に打ち克つには?

自分のお店を持つには?

世の中の困っている人をできるだけ多く救うには?

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「結果」とはあなたの努力の上に存在する【ご褒美】。

そして、あなたはそのご褒美の存在を、

 「いかに忘れて」

 「いかに目の前の方法や手段に専念できるか」

もし、いつかそのご褒美をもらえた時が来たら

その時は素直に自分を褒めたたえよう。

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