世の中には、家族、職場、ボランティア団体、習い事のサークル、地域の伝統行事の集まり、といった様々なコミュニティが存在する。
しかし、そのどこにも属さず、自分は社会の一員と思えない、なぜか寂しい思いや孤独を感じたり、世に貢献できない無力な自分に苛まれているという人がいるのではないだろうか。
広告私は最近「社会彫刻(Social Sculpture)という言葉を耳にした。
これはドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスが提唱した理論で、
「誰もが自らの創造力によって芸術家となりうる」という意味である。
文字の中で「芸術家」という言葉が使われているが、これは決して絵画や建築といったアーティスティックな内容のものだけはなく、教育、政治、科学、哲学、経済学といった社会には必要不可欠な内容も含まれる。
広告では今の自分で考えてみてほしい。
◆まだ学生でアルバイトもしたことないし…
◆ただのサラーリーマンだし…
◆ただの主婦、主夫だし…
◆学校へも行かず、仕事へもせず、ただの引きこもりだし…
◆すでにリタイアして、余生をすごしているだけだし…
◆何の目的もなく、ただ漫然と生活している何の取り柄もない人間だし…
◆持病を抱えていて、周りに迷惑をかけているだけだし…
「そんな自分のやっていることなんて、社会に不可欠とは到底思えない」
「ただ淡々と日々を暮らしているだけ」
そんな風に思ってはいないだろうか?
実は私はこのように思っていた。
「社会彫刻」という言葉を知るまでは。
ボイスはこう述べている。
「ジャガイモの皮を剥く行為でさえ、意識的に行われたのであれば、芸術的な行為になる」と。
つまり「社会を彫刻する」とは、「人生のあらゆる局面には創造的なアプローチができ、それによって誰もが社会全体の幸福に寄与できる」
そういった考え方なのだ。
広告社会的地位がなくとも、
高所得でなくとも、
特殊な技術がなくとも、
誰もが振り返るような容姿がなくとも、
裕福な家庭でなくとも、
健康でなくとも、
それぞれどんな立ち場、環境においても、
自ら「そうしよう」と意識的に働きかけることで、その行為がたとえ豆粒のようなものでも、
社会構造の中の一部に含まれ、それがあることで、他の部分が構築されていく。
そして、それらが社会になくてはならない重要なものに変化していくのである。
広告人は罪を犯せば逮捕され、罰を受ける。
この社会に存在しているから、社会のルールの対象となるのは当然である。
しかし、これは裏を返せば、自分は「社会の一員」だということに他ならない。
小さな悪行も罰せられたり、たとえ罪に問われなくとも、周りからは批判を浴びる。
であれば、その逆を自らやっていけば、この社会に属する一人として、社会に影響を与える、幸福に寄与できることは、これまた当然といえる。
どんな些細な行動にも、意識的にプライドを持ってみよう。
つまりそれが結果的に社会に貢献するということになり、胸を張って上を向いて生きていける。
あくまでポジティブに。
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