国家試験まで残り1週間!

昨年末くらいから日々の隙間時間を利用して、何とかやってきたわけだが、とうとう試験まで残り1週間となった。

もしかしたら既に未来は決まっているのかもしれないが、最後の悪あがきを実行したいと思う。

この国家試験、5年の特例措置があり、今回がその5年目。私が受験できるのは今回のみ。泣いても笑ってもこの試験が最初で最後のワンチャンス。

運もプレッシャーも全て味方につけるには、最後まであきらめないこと。

ポジティブシンキングで最後までやりきってみせる。

当たり前のことを当たり前に

 今からごくごく当たり前のことを書こうと思う。

「継続すること」についてである。

さて、果たしてどれだけの人がこれを実行できているだろうか?

身近にはあまりいないとしても、世の中を見渡せば「継続する」という当たり前のことを当たり前に実行している人はたくさん存在するにちがいない。

同時に「継続することで成功をつかんでいる人」も少なくないのではと思える。そうすると「成功する」為には、「継続することが前提」という理論が成り立つ。

さて、ここで私の失敗談をいくつか。

学生時代、中間期末テストがある時は、いつも一夜漬け。たいした結果がでなかったのがほとんど。

受験の際も、コツコツ勉強した感じはなく、途中経過はいい感じであったにもかかわらず、最後には友人に追い抜かされる結果となった。

大学の卒業論文も同様であり、提出期限前日から朝にかけて仕上げるなど、寸前に一極集中することが常。

その後も、体力づくりの為にジムに通うも3ヶ月で終わり、自宅での体幹トレーニングも当然続かず。

ヨガもピアノも9ヶ月程度は続いたが、それ以上はなかった。

ライターになるべく、教室にも通ったことがあったが、結局それも続いていない。

ある採用試験にも、いいところまでいくのだが、毎日コンスタントに勉強することができず、チャンスを逃してしまったこともある。

ここまで過去の失敗談を綴ってきたわけだが、それではなぜ私がこれほどまでに「継続すること」を力説するのか?

それは、最近になりその言葉の意味がよく分かってきたからだ。

つまり「継続すること」で、結果が出始めたということ。

私は、昨年ある国家資格に1発合格することができた。

今までの自分なら試験のちょっと前に勉強し、案の定、結果がダメで「ほら、やっぱりダメだった」で終わっていたと思う。

「また来年に向けてボチボチ勉強をすればいいや」などと。

しかし、なぜか今回は違った。「このまま失敗続きの人生なんて、何かしゃくに障る。人生において何か形に残したい」そんなことを思いつつ、色んな人の姿や言葉を思い出していた。

・あるライタースクールの先生は「シナリオや小説を完成させるには、毎日1時間机に向かうことができるかできないかだ」

 →これについては、シナリオや小説は、話の内容よりもまず最後まで完成させることが”至難の業”であることを補足しておきたい。

・昔、ある採用試験にともに挑戦した友人がいたのだが、その友人は見事に合格を勝ち取り私は落ちた。私から合格するための助言を求めたところ「仕事でしんどくても、毎日1時間机に向かえるがどうか」とのことであった。

・移動中の電車で、ドア付近に立っていた男性の老人が「英語の単語帳」を見ていた。

今も尚、現役で活躍しているサッカーのキングカズさんも、あの年齢で体力をキープできているのは、毎日のトレーニングを欠かさないからなのだろう。

・もう引退されたが、元メジャーリーガーのイチローさんも、あれだけの功績を残せたのはトレーニングを1日も欠かさずに取り組めたことが大きく影響しているはず。

・他にも、ノーベル賞を受賞した研究者の方々も。日々のトライアンドエラーの繰り返しで成功を見いだしているのは周知の事実である。

「そうだ、やっぱり成功を勝ち取るには、日々の目の前の時間に集中し、努力するしかない」そう思えたわけである。

そして私は、まず専門学校の学費を何とか工面すべく、2年間毎月数万円ずつ貯蓄することにした。

いきなり多額のお金を準備することはできないが、少額でも時間をかければ何とかなる。これも「継続すること」の結果である。

そしてお金が貯まったら、次に専門学校に入学。そこからさらに仕事と並行して約2年間勉強。

試験に向け、徐々に緊張が高ぶってくる中、何とか試験には1発合格し、国家資格取得を勝ち取ったわけである。

それまでに計4年を費やした。

振り返ったのだが、今回の国家試験はあまりに膨大な範囲であり、絶対に数ヶ月間の勉強では合格は勝ち取れなかったと思っている。

毎日の少しの時間の積み重ねがあったからこそだったと。

仕事や家事が忙しい人だって、例えば通勤時間の電車の中、昼休憩ご飯を食べた後に参考書を開く。

歩いている時、料理を作っている時、洗濯物をたたんでいる時、見たり書いたりはできなくても、音声だけの講義を聞くことはできる。

私は、以前「まとまった時間がとれないから勉強できない」と自分に言い訳していることがあった。しかし、小間切れの勉強でも成果はあることに気づいた。

「どうせまだまだ先のことだし、モチベーションはなかなかあがらない」とか、「そんな頑張ったって落ちる時は落ちるんだから意味がない。落ちたらそんな努力は無駄になるだろう」

とか、もちろんそんな声も聞こえてきそうなのだが、成功とは結果を出すとは「積み重ねてきた努力したその先にあるもの」である。

もしかすると、運が良い人は「ただ単に運が良い」ではなくて、「努力した人だからこそ運を引き寄せた」の感覚と似ているのかもしれない。

つまり「それを実行した人だけがその権利を得る」ことだと、そう私は思っている。

もう一度言う。

当たり前のことを当たり前に言う。

どんなことにしたって、やはり一朝一夕には成功などあり得ない。1日1日の努力の積み重ねが成功へとつながるのだ。

一度でも継続して成功をつかむことを経験すると、それがいかに大切であるかを実感することとなる。

努力をして成功することを一度でも味わうまでは確かに大変である。もちろん挫折もあるだろう。

しかし頑張って一度経験してしまえば、途端に思考が変わる。

実は私、今年の夏にある別の国家試験に向けけ、日々邁進している最中。

今回の試験はよりいっそう難易度が高いのだが、やれるべきことはやってみるつもりだ。

今回私が述べてきたことを再度実証すべく、ポジティブシンキングで是非とも成功をつかみたい。

ピーク・エンドの法則

日常生活の出来事の中で残っている記憶や印象は人それぞれ。

例えば、

・テーマパークで遊んだ記憶や印象

・行列ができる店で食べた記憶や印象

・映画を観た時の記憶や印象

・彼氏彼女とのデートの記憶や印象

・著名人の講座を受けた時の記憶や印象

実際は苦痛の割合が多かったはずの出来事が、時が経過するにつれ甘美な記憶、楽しく充実した記憶や印象になってしまう。

このような経験をした人は少なくないだろう。

これはなぜなのか?

2002年にノーベル経済学賞を受賞した、心理学者・行動経済学者の「ダニエル・カーネマン」が提唱した「ピーク・エンドの法則」というものがある。

これは「人の記憶や印象の良し悪しは、その出来事の中で最も”高ぶった時”(ピーク)と”クライマックス”(エンド)だけで決定づけられる」というもの。

ある実験では、

まず1番目のグループに大音量の不快な騒音を聞かせた。

そして2番目のグループにも同様の騒音を少し長めに聞かせた。

最後に少しマシな騒音を流し実験を終えた。

その後、どちらのグループがより不快に感じたかを評価してもらったところ、2番目のグループの方が、1番目のグループよりも不快に感じなかったのだ。

この実験が仮に2時間だったとしよう。しかし、ほんの数分でも気持ちが高揚したり、終わり際の印象が良いものであれば、その出来事全体の印象としては「良くなる」ということを実証している。

冒頭の例で言えば、

★寒くて凍えそうな中、2時間も並び、やっとのことで噂のラーメンを食べることができた。

感動! 初めて味わう美味しさ!

しかし食べる時間としてはほんの10分。

帰り際、店員さんが「また来てくださいね」とにっこり微笑んでくれた。

後日、ラーメン食べるなら「またあの店に行きたいなあ」と思えた。

★睡眠不足の中、会社の命令である講演を聞きに行った。

概ね話の内容が単調でつまらなく、眠りにつきそうだったが、登壇者の最後のある一言にグッと気持ちが引き寄せられた。

後日、この講演を友人にも勧めたり、この登壇者の著書も購入した。

★彼氏との初デート。

車で移動の道中、ほとんど会話がなく、もう帰りたいと思っていた。

デートの内容は「蕎麦打ち体験」。お互い失敗ばかりで、なかなかスムーズにいかないながらも何とか完成した蕎麦だったが、とても美味しかった。 

帰りの車でも、相変わらず会話が少なかったが帰り際、彼氏から「一緒に作るとあんなに楽しいものなんだね」と言われた。

この一言で、また一緒にデートしたいと思えた。

以上のように、この法則は日常の様々な場面で応用が利く。

全体の時間を「全力疾走」は疲れる。

「ピークとエンド」だけに力を注げば、相手に対して良い印象となり、それが記憶として残る。

また「ほとんど手応えがなく、このままだと何の成果も得られない!」と思っても、その出来事には最後の最後まで巻き返しをはかれるチャンスがあるということを忘れてはならない。

まさにポジティブシンキングである。

何かこれって、人生にも同じことが言えるのかも。 

ドラマ「アバランチ」

今回は少し横道をそれる内容であることご了承願いたい。

このドラマについて、ブログで発信せずにはいれなかったので。

毎週欠かさず観ているドラマのひとつに、この「アバランチ」がある。

非常に簡単に言うと、木村佳乃さんをリーダーとし、綾野剛さん等のメンバーが国家に立ち向かっていく内容なのだか、このドラマの緊迫感、臨場感、スピード感は筆舌に尽くしがたい。各々のキャストによるシリアスな演技がまた目を見張る。

数年前に同じようなタッチで「CRISIS」という西島秀俊さんや小栗旬さん等が出演しているドラマもまた秀逸であり、私としては続編を待ち望んでいた。

そんな中、この「アバランチ」というドラマに出会った。最終回まであと数回となったが、このブログを読んで少しでも興味がわいた方は、是非観ていただきたい。

これからの展開はきっと私の予想を上回ってくるのだろう。最終回まで見届けたい。

あなたの周りの個性的な人たち

世の中は皆、外見や性格は異なる。似ている人はいても全く同じ人など存在しない。そしてその中で、我々は個性的な人に遭遇することがある。

例えば私が出会ってきた人の例で言うと、

・奇抜なファッションの人 (場にそぐわない季節感の無い服装)

・毎日同じ物しか食べない人 (特定の物や人などに固執する人) 

・寸分狂わず、毎日同じ時間に行動する人

・一方的にずっと話をし続ける人(会話のキャッチボールができない人)

・いつも遅刻をする人

・手持ち無沙汰が苦痛な人

・感受性が強く、勘が鋭い人

・見通しや期限を設定すると頑張れる人

・集団行動が苦手な人

・相手のことを考えずズバズバ物を言う人 

・身振り手振りが度を越している人

・文字のバランスが極端に悪い人

・いつも物をなくしてしまう人

・収集癖がある人

・物のたとえや言い回しの意味が分からず  字義どおりに解釈する人

・物の例えが上手な人(表現力豊かな人) 

・物や人へのこだわりが強い人(執着心の強い人)

・ケアレスミスが多い人

・いつも道に迷って、なかなか目的地にたどり着けない人

・整理整頓ができない人(捨てることができない人)

・思い立ったらすぐに行動する人(落ち着きのない人)

・相手の立場になって考えられない人

・物事を常に後回しにする人

・世間話が苦手な人

・記憶力が異常に高い人

・色彩感覚が豊かな人

・超合理的な人(無駄が嫌いな人) 

・スケジューリングが苦手な人(先を読むのが苦手な人) 

・想像力、創造力の有無が極端な人 

・物の在庫があればあるほど安心する人 

・何時間も物事に集中できる人

どうだろう。こんな感じの人が、あなたの 身の周りに存在してはないだろうか?

また、以下のようなエピソードもある。

・「自転車を逆にしといて」という指示に対し、上下逆さまにして「これで良かったですか?」と聞く人。

・「100円を10円に交換しといて」という 指示に対し、「何てもったいない!!」と言って驚く人。

・「良かったらいつでも遊びに来て!」と言われたから、早朝の6時に相手の家を訪ね「常識考えてよ!!」と怒られる人。

これらは、言葉を字義どおりに解釈してしまう人の例である。 

ここで「サリーとアンの課題」という有名な心理検査を紹介しよう。

①サリーとアンが立っている。そこにはリンゴとカゴと箱がある。  

  ↓  

②アンが、サリーの視界に入る状態でリンゴをカゴに隠す。  

  ↓  

③サリーが退室する。その際に、アンはリンゴをカゴから箱へ移し替えておく。 

★問題

戻って来たサリーは、まずどこからリンゴを探し始めるだろうか?

という内容。さて、あなたならどう考える?

ちなみにこの心の理論(相手の心を類推する力)は、未就学児(概ね4歳~5歳)で身につく力であるが、これが理解できない人がいる。

もうお気づきだろう。そう、これらはいわゆる「発達障害」に多くみられる特性である。

発達障害といっても、学習障害、ADHD、自閉スペクトラム症とそれぞれの特性があり、それが重なる場合もある。

ここで注意しておきたいのだが「発達」の特性があるからといって、それがイコール「障害」というわけではない。「障害」とはその名のとおり、日常生活やコミュニケーションがうまくいかないから「障害」なのである。

 「発達障害」とは、あくまで「発達の特性」により「適応障害(うつや統合失調症)」が発症している状態を言うのであって、

たとえ特性が顕著であっても、理解してくれる人や助けてくれる人が周りにいたり、その人にマッチしている環境であれば、それはもはや「障害」とは言わない。

自分の中で「何か自分は変だ。ふわっとしている。何か生きづらい」という人。でも大きな問題もなく、何とか生きてこれている人。

そのような人は「発達の特性」がある可能性が高い、いわゆる「グレーゾーン」の人たちだ。

個性(性格)と発達障害、これを厳密に線引きするのは正直難しいと思える。

しかし決してネガティブに捉える必要はない。

なぜなら、その特性にはプラスに働くものも多いからだ。

上記に箇条書きにした特性の内容の中にはマイナスだけでなくプラスのものもあったはずである。それに気づいただろうか?

どんな分野においても、平均的な能力を持ち合わせている人が存在しているのと同様に、能力に偏り(凸凹)がある人も存在する。

それが極端な人がいわゆる「発達の特性(傾向)がある人」となる。

苦手なことに着目するのではなく、得意なことで勝負すれば良い。

「得意」とは、人と比べての「得意」である必要はない。自分の中で「得意だなあ」「得意かも」のレベルで充分である。それをどんどん磨いていけば良いのだ。

「自分を知る」「自分を理解する」のは、早ければ早いほど良い。そうすることで、幅が広がる、選択肢が増える、道が開ける、そして人生が良い方向に転がっていく。

「人生それに気づいた者勝ち」であると、私は思っている。

ある外国の学者は「世の中の文化を形成してきたのは発達障害者の力が大きい」とさえ言っている。

自分の良い特性に着目しよう。

そしてひたすらその特性を磨いていき、人生を渡り歩く武器にしよう。

ポジティブに考えよう。   

挫折しそうになる時

このブログを書き始めてから約4ヶ月経過するが、更新はスローペースで未だ20記事程度である。

内容についてはまだまだ未熟であり、認知度も低い。こうなってくると書くペースはますます低下してきそうである。

時に「別に無理して書かなくても」と思ったり、「書かなければ…」という義務感に振り回されている自分がいることに気づく。

自分の考えを綴ることで、誰かの生きるモチベーションになれば良いと思って書いてきた。

しかし……

そもそもこのブログは「書くこと」が好きで始めたこと。

ここで私は2人の言葉を思い出した。

1人目はCreepy NutsのDJ松永氏の言葉である。

「結果が出ない時はかなり落ち込むが、そもそもDJは好きで始めたこと。好きで始めたんだから、好きでやってるんだから結果に左右される必要はない。好きだからこそ続けていける。軸がブレないように、この考えをお守りにしている」

一言一句同じではないが、こんな感じの内容をTV番組で話していた。

2人目は、マジシャンで精神科医の志村祥瑚氏の言葉だ。

「結果を意識しすぎては、結局成功にたどり着かない。今目の前のやるべきことに全力で意識を集中させることが大事。そうすることで、プレッシャーから開放され、本来の力を引き出すことができ、成功につながる」

確かこのような内容だったと思う。志村氏についてはいくつか書籍が出ているので、是非とも読んでいただきたい。

これらのポジティブな言葉があれば、まだ続けていけそうな気がしてきた。

目の前の好きなことに、自己研鑽しながら取り組んでいきたい。

そうすれば、いつか結果がついてくる。

幸運は平等にやってくるのか?

我々がこのありふれた日常を過ごす中で、

「ラッキー! 運が味方してるわ!」

「あぁ、僕は何てついてないんだろう。いつもこうだ。良いことなんてひとつもない」

など、運の良し悪しを感じる時は多いだろう。

では、そもそも「幸運」とは平等にやってくるのか?

そこで、私の考えを4つあげてみる。

①もともと幸運のストックが皆同じだけ備わっている。つまり、不運のあるなしに関わらず、幸運は平等にやってくる。

②もともと幸運のストックが皆に備わっているが、そのキャパシティには個人差がある。

③不運な出来事がある度に、それと同じくらいの幸運がやってくる。つまり、不運がない人に幸運はやってこない。

④努力したり、人脈を増やしたり、良い行いをすることで幸運がやってくる。つまり、そうしない人には幸運はやってこない。

次に具体例である。①の「もともと幸運のストックが皆同じだけ備わっている」について。

例えば、

・初めて買った宝くじで1等に当選する、いわゆる「ビギナーズラック」。

・ほぼ勉強していなかったのに試験に合格する。

これらの場面は、もともとあった幸運のストックから、シンプルに「運を使った」と言っていい。

一方、

・あるパーティーでせっかくお金持ちのイケメン男性からラブビームをを出してくれていたのに、それに気づかなかった。後日、その男性は他の女性と結婚してしまった。

これはどうだろうか?

幸運になる結果は充分にあり得たが、気づかないことで逃してしまったことになる。

つまりだ。幸運のストックが皆同じだけ備わっていたとしても、それぞれの人間の日常生活において、気づき、洞察力、観察力がなければ、幸運を逃してしまうというわけだ。

他にこんな見方もある。今置かれている状況が、幸運と思えるか否かだ。

自分の中で、もし「世間ではいろんな病気や障害で苦しんでいる人もいる中、私はいつも健康に生活できている」と思えたらどうか?

何の変哲もない平凡な日々を暮らしていても、それを幸運と思えるかそうでないかは、自分の考え次第とも言える。

これらの考えは、②の「もともと幸運のストックが皆に備わっているが、そのキャパシティには個人差がある」につながるだろう。

つまり、本来幸運は平等にやってくるのだが、自分で幸運をつかむ姿勢や準備が整っているか、あるいは見え方や感じ方で「個人差」が生まれるわけである。

次に「③の不運な出来事がある度に、それと同じくらいの幸運がやってくる」について。

例えば、

・ATMで出金したての100万円が盗まれる。結局見つからなかったが、後日競馬で高額配当により、ほぼ同等の金額またはそれ以上のお金を獲得する。

・「不治の病」と言われていた難病を患っていたが、数年後に特効薬が開発され治癒していく。

これらの例は非常にわかりやすい。マイナスの部分とプラスの部分がほぼイコールになるわけだ。

これについても①の考えが必要になってくる。

つまり「不運」で終わるのではなく、そこから「こんなことでは終わらない、これ以上の幸運を手にするんだ」という意識を高め、日常の些細なことに目を向けることによって、運気をつかみ、幸運はやってくる。

そして最後に④の「努力したり、人脈を増やしたり、良い行いをすることで幸運がやってくる」について。

例えば、

・バッチリ面接対策をしていたが、ことごとく不採用となった。あるきっかけで、全く選択肢にはなかった会社の面接を受けたところ、採用となった。

・飲食店を開業する夢があり、勉強したり調べたりするが、イマイチ分からないし資金もない。あるきっかけで、他業種の人とも積極的にコミュニケーションをとったところ、「協力しよう」という人が現れた。

・地道に清掃に取り組んでいたところ、世間から注目を浴び、グローバルなプロジェクト(社会貢献事業)につながった。

つまり前向きにやっていたことが、自分の意思とは少し違った形で幸運となってやってくる。

以上④つの項目について述べてきたが、「幸運」とは、例えば「宝くじに当選する」などの物理的な場面においては平等と言い難い。

しかし、日常の中で洞察力や観察力を鍛えたり、見方や考え方を変えることで、幸運につながる気づきをもたらすことができる。

また、努力したり、様々な人と接することにより幸運へのヒントを得たりすることも可能なのだ。

そういう意味では「幸運を得る機会は平等」と言えるのではないだろうか。

「ああ、私は不運なことばかりだ」と落胆する時間があるのなら、自己研鑽したり、自分の考えを身近な人や世の中に発信したり、いろんな機会を作る為に時間を使った方が良い。

ポジティブシンキングを身につけ、幸運をつかむのは、結局自分次第なのだ。

ホットポテト理論

皆さんは「ホットポテト理論」を聞いたことがあるだろうか?

「熱いじゃがいもの理論」って一体何? と思うかもしれないが、これは心理学の交流分析理論のファニタ・イングリッシュ博士が提唱しているれっきとした理論である。

「ホットポテト理論」とは集団で行うゲーム内で、”普段個人だと運が悪くないのに、集団となると途端に運が悪くなる”ことを言う。

ちなみにこの「ホットポテト」というのは、元々アメリカの爆弾ゲームで、人が円になって熱々のポテトを回し、音楽が止まった時点でそのポテトを持っていた人が罰ゲームをする遊びである。

日本では、トランプのババ抜き、ハンカチ落としがそれにあたるだろう。集団で行うジャンケンもそれにあたるのかもしれない。共通しているのは、集団の中で罰ゲームをする「敗者」を作り出すこと。そして皆はその「敗者」にはなりたくないと思うはずだ。

ここで思い出していただきたい。ババ抜きやハンカチ落とし等の遊びをすると、よく同じ人が敗者になっていた記憶はないだろうか?

この理屈をファニタ・イングリッシュ博士は「最初から敗者は決まっている」と説明している。

そしてこの敗者は必ず「傷つきやすく、支配されやすく、いじめやすそうな人」になっているというのである。

なぜなら、「傷つきやすく、支配されやすく、いじめやすそうな人」というのは、”自己犠牲を行うシナリオを書いている人だから”だそうだ。

これは一体どういうことなのだろうか?

以下は私の考えである。

元々つき合いのある人間がゲームに参加するのであれば、だいたいの性格を知られているので、もし気が弱い人であればターゲットにされる。

また、初めて会う人間でも、自信なさそうな外見であればターゲットにされる。

皆、自分が罰ゲームを受けたくないので、おのずとそれを引き受けてくれそうな人間を探し、気が弱そうな自信なさそうな人間をターゲットにするのである。

これは集団でありがちな攻撃側の心理状態といえる。

では「敗者」になる人の心理状態だが、ここが本当の意味での「敗者」になるか否かの分かれ目になる。

①全体の雰囲気を良くしよう、盛り上げよう、目立って笑いに転換しようなど、戦略的な意図であえて「敗者」を引き受ける人。

②「自分が敗者を受ければこの場は丸くおさまる」「何となく自分が敗者を引き受けなければいけない気がする」と考える人。

この①と②の考え方の違いが人生に多大な影響を及ぼすことになるわけだ。

もうすでにお分かりかと思うが、同じ「敗者」でも、

①の例はそもそも「ホットポテト理論」のターゲットではない。ターゲットとなるのは、②の例である。

①はポジティブ思考、②はネガティブ思考。

②のネガティブ思考は、先に述べたが本当の意味での「自己犠牲」である。そして、この「自己犠牲」はとても厄介で、一度この考えに染まってしまうとなかなか脱出できない。

もっと言うと、いくらこの「自己犠牲」を続けていこうとしても、やがてメンタルに限界が来て、身も心も崩壊する。

少し横道にそれてしまったが「ホットポテト理論」とは、いくら自分が罰ゲームを受けたくなかったとしても、周りからの圧力や自身のネガティブ思考、自己肯定感の低さから、自ら「敗者」を引き受けている、その自身の作ったシナリオ通りに事が運んでいるということなのだ。

最後にだが、長い人生において、時に「自己犠牲」が必要な場面もあるが、それを常態化させてはならない。

迷走から脱却し、充実した人生を送るには、「自己犠牲」の思考を捨てなければならない。

2人でいるのなら2人にとって同等にメリットがある方法、3人でいるなら3人にとって同等にメリットがある方法を一緒に考えれば良い。

そして、自分に到底無理が生じる内容であれば、断る勇気も必要である。

そのことを念頭に置き、ポジティブに人生を過ごしていただきたい。

偶然を作り出すことの重要性

皆さんは「セレンディピティ」という言葉をご存知であろうか。

「セレンディピティ」とは、18世紀のイギリスの政治家であり小説家のホレス・ウォルポールによる造語と言われている。

ではセレンディピティの語源とは? どんな意味なのか?

ホレスは、3人の王子たちが優れた能力や才気によって有益なものを偶然に発見するスリランカの童話「セレンディップの3人の王子たち」を読んで「セレンディピティ」という言葉を作った。これが語源である。

つまり、「偶然をきっかけに予想外のものを発見し、価値を見出し、幸運を掴み取ること」を意味している。

幸運をつかみとることができるというのなら、セレンディピティが重要なのは誰にも理解できる。しかし大事になのは、そこに至るきっかけ、つまり「偶然性」いかに作り出すかであると私は考える。

例えばだが、ある本が欲しかったとしよう。

本の購入の仕方としては、「ネット通販」「書店に行く」の方法がある。

ネット通販では欲しいものを検索し、数日待てば確実に手元に届くだろう。

一方、書店ではどうか? 車や電車で時間をかけて移動し、書店の中を探し回ったり、店員に尋ねたり……。すぐに見つかれば良いが、まあ時間がかかったり、挙げ句の果てには品切れで「お取り寄せ」とう方法をとる事態も考えられる。過去に私もそんな経験をしたことがあった。

しかしだ。「せっかく来たのだから」と目についた気になった本をふと手に取ってみる。そうすると、自分が探していた本の内容をまた別の角度から述べているもの、また、全く別のジャンルだがとても興味深いことを述べているものをが発見できたこともまた事実である。

つまり「あえて時間をかけて書店に行く」という行動が、自分が想定していなかった素晴らしい本を発見する偶然性を作り出すきっかけになったわけである。

ここでもっと大事なことを述べておきたい。

仮に自分の想定していたものに出会ったとしても、それをする決してスルーせず、「価値のあるものかもしれない」という意識をもち一度触れてみることだ。それがあって初めて「価値のあるものに出会う」ことになる。

誤解なきよう補足しておくが、ネット通販で購入することがダメであるわけではない。通販は通販で「欲しいものを確実に購入できる」という最大のメリットがあるわけで、あくまでその時の状況や気分で使いわけるのが一番だと思える。このコロナ禍ではより一層メリットを感じている人も多いだろう。

以上、本の購入の例を用いたが、もちろん「人」にも当てはまる。皆さん、研修やパーティー、旅行などもそうであるが、目当ての人ではなく、それ以外の人(他の業界の人)と意気投合したような経験はないだろうか?

ここでも繰り返しになるが、出会うだけではなく、「この人は自分にとってプラスになる人ではないだろうか?」という意識のもと、勇気をもって積極的に会話してみることである。もし、その人が自分の人生にとって影響力のある人であれば、かけがえのない宝を発見したことになる。

今コロナウイスルはまだまだ猛威を振るっている。

しかし、いつか出口が見えてくる。

また以前のような自由な社会になった際には、

①目的をもって外出してみて、あえて偶然性のきっかけを作る。

②目的とは異なるもの(人)であっても積極的にアプローチする。

③それが自分にとって価値のあるもの(人)かどうかを意識する。

この3つを実行し、ポジティブな思考を持ち、是非とも幸運をつかんでいただきたい。

「情けは人の為ならず」は本当なのか?

皆さん一度は「情けは人の為ならず」という格言を聞いたことがあるだろう。

ちなみにだか、これは「情けをかけるのは他人の為ではない。自分の為である」との意味になる。

では、他人に情けをかけることが本当に自分の為になるのだろうか?

私は「なる」と考えるし、もっと言えば、どんどん実行すべきである。

なぜなら理論的にも充分にあり得ることだからだ。

昔、「ペイ・フォワード」という子どもが主人公の映画を観たことがあった。

簡単に説明すると、

「もし自分の手で世の中を変えるならどうするか?」との教師の質問に、生徒の子どもは「自分が受けた善意を、その人とは別の3人にも送っていく」というあらすじだ。

この理論を実行したら果たしてどうなるか?

例えば、これを車の車線合流に置き換えてみよう。なかなか間に入れてくれない状態が続くことはよくあることだが、必ず前を空けてくれる車もいる。

そしたら入れてもらった方は、一応ハザードなど等で感謝の意を示すが、これでは終わらない。

後日、合流しづらそうな車を目の当たりにした時、「前に自分も入れてもらったしな」とスムーズに前に入れる行為に及ぶ。

そして、また入れてもらった人が、後日同じような場面で他の車を入れてあげる。

そもそも最初に車線に入れてもらった本人も、そのもっと前に自分が車線に入れてあげたことがあって、それが回り回ってきたのかもしれない。

今回の例は、ドライバーの日常であったが、この理論はあらゆる善意の場面に当てはまるはず。

つまり、人から受けた善意は、また日常のどこかの場面で何名かの誰かにお返しをすることで、またいつか自分が困った時に返ってくるということなのだ。

「情けは人の為ならず」という格言が後世に語り継がれているのも、無意識にこの理論を皆が信じているからではないか?

善意を善意で先に送っていくことにより、自分の人生がより豊かで充実したものになる。そんな人が増えたら世の中が変わる。そしたらその世の中に存在する自分の幸福度もまたアップする。

ポジティブな思考や動き次第で何かが変わる。