挫折しそうになる時

このブログを書き始めてから約4ヶ月経過するが、更新はスローペースで未だ20記事程度である。

内容についてはまだまだ未熟であり、認知度も低い。こうなってくると書くペースはますます低下してきそうである。

時に「別に無理して書かなくても」と思ったり、「書かなければ…」という義務感に振り回されている自分がいることに気づく。

自分の考えを綴ることで、誰かの生きるモチベーションになれば良いと思って書いてきた。

しかし……

そもそもこのブログは「書くこと」が好きで始めたこと。

ここで私は2人の言葉を思い出した。

1人目はCreepy NutsのDJ松永氏の言葉である。

「結果が出ない時はかなり落ち込むが、そもそもDJは好きで始めたこと。好きで始めたんだから、好きでやってるんだから結果に左右される必要はない。好きだからこそ続けていける。軸がブレないように、この考えをお守りにしている」

一言一句同じではないが、こんな感じの内容をTV番組で話していた。

2人目は、マジシャンで精神科医の志村祥瑚氏の言葉だ。

「結果を意識しすぎては、結局成功にたどり着かない。今目の前のやるべきことに全力で意識を集中させることが大事。そうすることで、プレッシャーから開放され、本来の力を引き出すことができ、成功につながる」

確かこのような内容だったと思う。志村氏についてはいくつか書籍が出ているので、是非とも読んでいただきたい。

これらのポジティブな言葉があれば、まだ続けていけそうな気がしてきた。

目の前の好きなことに、自己研鑽しながら取り組んでいきたい。

そうすれば、いつか結果がついてくる。

幸運は平等にやってくるのか?

我々がこのありふれた日常を過ごす中で、

「ラッキー! 運が味方してるわ!」

「あぁ、僕は何てついてないんだろう。いつもこうだ。良いことなんてひとつもない」

など、運の良し悪しを感じる時は多いだろう。

では、そもそも「幸運」とは平等にやってくるのか?

そこで、私の考えを4つあげてみる。

①もともと幸運のストックが皆同じだけ備わっている。つまり、不運のあるなしに関わらず、幸運は平等にやってくる。

②もともと幸運のストックが皆に備わっているが、そのキャパシティには個人差がある。

③不運な出来事がある度に、それと同じくらいの幸運がやってくる。つまり、不運がない人に幸運はやってこない。

④努力したり、人脈を増やしたり、良い行いをすることで幸運がやってくる。つまり、そうしない人には幸運はやってこない。

次に具体例である。①の「もともと幸運のストックが皆同じだけ備わっている」について。

例えば、

・初めて買った宝くじで1等に当選する、いわゆる「ビギナーズラック」。

・ほぼ勉強していなかったのに試験に合格する。

これらの場面は、もともとあった幸運のストックから、シンプルに「運を使った」と言っていい。

一方、

・あるパーティーでせっかくお金持ちのイケメン男性からラブビームをを出してくれていたのに、それに気づかなかった。後日、その男性は他の女性と結婚してしまった。

これはどうだろうか?

幸運になる結果は充分にあり得たが、気づかないことで逃してしまったことになる。

つまりだ。幸運のストックが皆同じだけ備わっていたとしても、それぞれの人間の日常生活において、気づき、洞察力、観察力がなければ、幸運を逃してしまうというわけだ。

他にこんな見方もある。今置かれている状況が、幸運と思えるか否かだ。

自分の中で、もし「世間ではいろんな病気や障害で苦しんでいる人もいる中、私はいつも健康に生活できている」と思えたらどうか?

何の変哲もない平凡な日々を暮らしていても、それを幸運と思えるかそうでないかは、自分の考え次第とも言える。

これらの考えは、②の「もともと幸運のストックが皆に備わっているが、そのキャパシティには個人差がある」につながるだろう。

つまり、本来幸運は平等にやってくるのだが、自分で幸運をつかむ姿勢や準備が整っているか、あるいは見え方や感じ方で「個人差」が生まれるわけである。

次に「③の不運な出来事がある度に、それと同じくらいの幸運がやってくる」について。

例えば、

・ATMで出金したての100万円が盗まれる。結局見つからなかったが、後日競馬で高額配当により、ほぼ同等の金額またはそれ以上のお金を獲得する。

・「不治の病」と言われていた難病を患っていたが、数年後に特効薬が開発され治癒していく。

これらの例は非常にわかりやすい。マイナスの部分とプラスの部分がほぼイコールになるわけだ。

これについても①の考えが必要になってくる。

つまり「不運」で終わるのではなく、そこから「こんなことでは終わらない、これ以上の幸運を手にするんだ」という意識を高め、日常の些細なことに目を向けることによって、運気をつかみ、幸運はやってくる。

そして最後に④の「努力したり、人脈を増やしたり、良い行いをすることで幸運がやってくる」について。

例えば、

・バッチリ面接対策をしていたが、ことごとく不採用となった。あるきっかけで、全く選択肢にはなかった会社の面接を受けたところ、採用となった。

・飲食店を開業する夢があり、勉強したり調べたりするが、イマイチ分からないし資金もない。あるきっかけで、他業種の人とも積極的にコミュニケーションをとったところ、「協力しよう」という人が現れた。

・地道に清掃に取り組んでいたところ、世間から注目を浴び、グローバルなプロジェクト(社会貢献事業)につながった。

つまり前向きにやっていたことが、自分の意思とは少し違った形で幸運となってやってくる。

以上④つの項目について述べてきたが、「幸運」とは、例えば「宝くじに当選する」などの物理的な場面においては平等と言い難い。

しかし、日常の中で洞察力や観察力を鍛えたり、見方や考え方を変えることで、幸運につながる気づきをもたらすことができる。

また、努力したり、様々な人と接することにより幸運へのヒントを得たりすることも可能なのだ。

そういう意味では「幸運を得る機会は平等」と言えるのではないだろうか。

「ああ、私は不運なことばかりだ」と落胆する時間があるのなら、自己研鑽したり、自分の考えを身近な人や世の中に発信したり、いろんな機会を作る為に時間を使った方が良い。

ポジティブシンキングを身につけ、幸運をつかむのは、結局自分次第なのだ。

ホットポテト理論

皆さんは「ホットポテト理論」を聞いたことがあるだろうか?

「熱いじゃがいもの理論」って一体何? と思うかもしれないが、これは心理学の交流分析理論のファニタ・イングリッシュ博士が提唱しているれっきとした理論である。

「ホットポテト理論」とは集団で行うゲーム内で、”普段個人だと運が悪くないのに、集団となると途端に運が悪くなる”ことを言う。

ちなみにこの「ホットポテト」というのは、元々アメリカの爆弾ゲームで、人が円になって熱々のポテトを回し、音楽が止まった時点でそのポテトを持っていた人が罰ゲームをする遊びである。

日本では、トランプのババ抜き、ハンカチ落としがそれにあたるだろう。集団で行うジャンケンもそれにあたるのかもしれない。共通しているのは、集団の中で罰ゲームをする「敗者」を作り出すこと。そして皆はその「敗者」にはなりたくないと思うはずだ。

ここで思い出していただきたい。ババ抜きやハンカチ落とし等の遊びをすると、よく同じ人が敗者になっていた記憶はないだろうか?

この理屈をファニタ・イングリッシュ博士は「最初から敗者は決まっている」と説明している。

そしてこの敗者は必ず「傷つきやすく、支配されやすく、いじめやすそうな人」になっているというのである。

なぜなら、「傷つきやすく、支配されやすく、いじめやすそうな人」というのは、”自己犠牲を行うシナリオを書いている人だから”だそうだ。

これは一体どういうことなのだろうか?

以下は私の考えである。

元々つき合いのある人間がゲームに参加するのであれば、だいたいの性格を知られているので、もし気が弱い人であればターゲットにされる。

また、初めて会う人間でも、自信なさそうな外見であればターゲットにされる。

皆、自分が罰ゲームを受けたくないので、おのずとそれを引き受けてくれそうな人間を探し、気が弱そうな自信なさそうな人間をターゲットにするのである。

これは集団でありがちな攻撃側の心理状態といえる。

では「敗者」になる人の心理状態だが、ここが本当の意味での「敗者」になるか否かの分かれ目になる。

①全体の雰囲気を良くしよう、盛り上げよう、目立って笑いに転換しようなど、戦略的な意図であえて「敗者」を引き受ける人。

②「自分が敗者を受ければこの場は丸くおさまる」「何となく自分が敗者を引き受けなければいけない気がする」と考える人。

この①と②の考え方の違いが人生に多大な影響を及ぼすことになるわけだ。

もうすでにお分かりかと思うが、同じ「敗者」でも、

①の例はそもそも「ホットポテト理論」のターゲットではない。ターゲットとなるのは、②の例である。

①はポジティブ思考、②はネガティブ思考。

②のネガティブ思考は、先に述べたが本当の意味での「自己犠牲」である。そして、この「自己犠牲」はとても厄介で、一度この考えに染まってしまうとなかなか脱出できない。

もっと言うと、いくらこの「自己犠牲」を続けていこうとしても、やがてメンタルに限界が来て、身も心も崩壊する。

少し横道にそれてしまったが「ホットポテト理論」とは、いくら自分が罰ゲームを受けたくなかったとしても、周りからの圧力や自身のネガティブ思考、自己肯定感の低さから、自ら「敗者」を引き受けている、その自身の作ったシナリオ通りに事が運んでいるということなのだ。

最後にだが、長い人生において、時に「自己犠牲」が必要な場面もあるが、それを常態化させてはならない。

迷走から脱却し、充実した人生を送るには、「自己犠牲」の思考を捨てなければならない。

2人でいるのなら2人にとって同等にメリットがある方法、3人でいるなら3人にとって同等にメリットがある方法を一緒に考えれば良い。

そして、自分に到底無理が生じる内容であれば、断る勇気も必要である。

そのことを念頭に置き、ポジティブに人生を過ごしていただきたい。

偶然を作り出すことの重要性

皆さんは「セレンディピティ」という言葉をご存知であろうか。

「セレンディピティ」とは、18世紀のイギリスの政治家であり小説家のホレス・ウォルポールによる造語と言われている。

ではセレンディピティの語源とは? どんな意味なのか?

ホレスは、3人の王子たちが優れた能力や才気によって有益なものを偶然に発見するスリランカの童話「セレンディップの3人の王子たち」を読んで「セレンディピティ」という言葉を作った。これが語源である。

つまり、「偶然をきっかけに予想外のものを発見し、価値を見出し、幸運を掴み取ること」を意味している。

幸運をつかみとることができるというのなら、セレンディピティが重要なのは誰にも理解できる。しかし大事になのは、そこに至るきっかけ、つまり「偶然性」いかに作り出すかであると私は考える。

例えばだが、ある本が欲しかったとしよう。

本の購入の仕方としては、「ネット通販」「書店に行く」の方法がある。

ネット通販では欲しいものを検索し、数日待てば確実に手元に届くだろう。

一方、書店ではどうか? 車や電車で時間をかけて移動し、書店の中を探し回ったり、店員に尋ねたり……。すぐに見つかれば良いが、まあ時間がかかったり、挙げ句の果てには品切れで「お取り寄せ」とう方法をとる事態も考えられる。過去に私もそんな経験をしたことがあった。

しかしだ。「せっかく来たのだから」と目についた気になった本をふと手に取ってみる。そうすると、自分が探していた本の内容をまた別の角度から述べているもの、また、全く別のジャンルだがとても興味深いことを述べているものをが発見できたこともまた事実である。

つまり「あえて時間をかけて書店に行く」という行動が、自分が想定していなかった素晴らしい本を発見する偶然性を作り出すきっかけになったわけである。

ここでもっと大事なことを述べておきたい。

仮に自分の想定していたものに出会ったとしても、それをする決してスルーせず、「価値のあるものかもしれない」という意識をもち一度触れてみることだ。それがあって初めて「価値のあるものに出会う」ことになる。

誤解なきよう補足しておくが、ネット通販で購入することがダメであるわけではない。通販は通販で「欲しいものを確実に購入できる」という最大のメリットがあるわけで、あくまでその時の状況や気分で使いわけるのが一番だと思える。このコロナ禍ではより一層メリットを感じている人も多いだろう。

以上、本の購入の例を用いたが、もちろん「人」にも当てはまる。皆さん、研修やパーティー、旅行などもそうであるが、目当ての人ではなく、それ以外の人(他の業界の人)と意気投合したような経験はないだろうか?

ここでも繰り返しになるが、出会うだけではなく、「この人は自分にとってプラスになる人ではないだろうか?」という意識のもと、勇気をもって積極的に会話してみることである。もし、その人が自分の人生にとって影響力のある人であれば、かけがえのない宝を発見したことになる。

今コロナウイスルはまだまだ猛威を振るっている。

しかし、いつか出口が見えてくる。

また以前のような自由な社会になった際には、

①目的をもって外出してみて、あえて偶然性のきっかけを作る。

②目的とは異なるもの(人)であっても積極的にアプローチする。

③それが自分にとって価値のあるもの(人)かどうかを意識する。

この3つを実行し、ポジティブな思考を持ち、是非とも幸運をつかんでいただきたい。

「情けは人の為ならず」は本当なのか?

皆さん一度は「情けは人の為ならず」という格言を聞いたことがあるだろう。

ちなみにだか、これは「情けをかけるのは他人の為ではない。自分の為である」との意味になる。

では、他人に情けをかけることが本当に自分の為になるのだろうか?

私は「なる」と考えるし、もっと言えば、どんどん実行すべきである。

なぜなら理論的にも充分にあり得ることだからだ。

昔、「ペイ・フォワード」という子どもが主人公の映画を観たことがあった。

簡単に説明すると、

「もし自分の手で世の中を変えるならどうするか?」との教師の質問に、生徒の子どもは「自分が受けた善意を、その人とは別の3人にも送っていく」というあらすじだ。

この理論を実行したら果たしてどうなるか?

例えば、これを車の車線合流に置き換えてみよう。なかなか間に入れてくれない状態が続くことはよくあることだが、必ず前を空けてくれる車もいる。

そしたら入れてもらった方は、一応ハザードなど等で感謝の意を示すが、これでは終わらない。

後日、合流しづらそうな車を目の当たりにした時、「前に自分も入れてもらったしな」とスムーズに前に入れる行為に及ぶ。

そして、また入れてもらった人が、後日同じような場面で他の車を入れてあげる。

そもそも最初に車線に入れてもらった本人も、そのもっと前に自分が車線に入れてあげたことがあって、それが回り回ってきたのかもしれない。

今回の例は、ドライバーの日常であったが、この理論はあらゆる善意の場面に当てはまるはず。

つまり、人から受けた善意は、また日常のどこかの場面で何名かの誰かにお返しをすることで、またいつか自分が困った時に返ってくるということなのだ。

「情けは人の為ならず」という格言が後世に語り継がれているのも、無意識にこの理論を皆が信じているからではないか?

善意を善意で先に送っていくことにより、自分の人生がより豊かで充実したものになる。そんな人が増えたら世の中が変わる。そしたらその世の中に存在する自分の幸福度もまたアップする。

ポジティブな思考や動き次第で何かが変わる。

お金持ちの考え方

突然だが、皆さんは今の収入に満足しているだろうか?

正直私は満足していない。日本の所得格差は広がる一方で、「なんて理不尽な世の中なんだ」と嘆く人も少なくないだろう。

特に今はコロナの影響で、飲食店や旅行会社等が大打撃を受けている状況である。満足しているいないというより、むしろ「何とか食べていくだけでやっと」という人が大多数なのかもしれない。

しかし、こんな世の中でもいわゆる「お金持ち」という人が一定数存在するわけで…。

ちなみにだが、厚生労働省の国民生活基礎調査では、年収が1000万円以上の世帯数は「国民の約12%」と発表している。つまり約12世帯に1世帯の割合となるが、これを多いと感じるか少ないと感じるかは個人差もあるだろう。

しかし一般的には、やはり羨ましかったり、妬ましかったり、様々な感情が湧いてくるのではないか?

では、一体お金持ちはどうやってお金持ちになったのか?

私は以前、ニュース番組で以下のような調査結果を聞いたことがある。

①年収1000万円未満の人に、「年収1000万円の人はなぜ年収1000万円以上稼ぐことができたのか?」と理由を尋ねると「運が良かったからではないか?」の意見が大多数。

②一方、年収1000万円以上の人に、「なぜ年収1000万円も稼ぐことができたのか?」と尋ねると、「運を引き寄せたから」「その運をつかんだから」の意見が大多数。

この①②の違いはどういうことか?私の考えはこうだ。

①は受動的、②は能動的。

じっと待っていてもビジネスチャンスは生まれない。しかし、自らトライアンドエラーを繰り返し、それを積極的に発信している人、つまり成功しお金持ちになろうと努力している人には、必ず「協力者が現れる」ということだ。

また、日常の些細なことに対しても、違った角度から見れるようになり、それをビジネスチャンスと捉えるようになる。ニトリやカインズホームなどのアイデア商品は、まさにその視点から生まれたアイデア商品と言えよう。

加えて、一般家庭等の空きの駐車場を上手く利用した会社「Akippa」、印刷工場の工程の空き時間を上手くつなぎ合わせた会社「ラクスル」は、本当にニッチなところに目をつけたと感心せざるを得ない。

お金持ちになるには、一朝一夕とはいかない。だが思考を変えることで、その可能性は高まっていく。

世の中が混沌としている今を悲観的に捉えるのではなく、ぜひともポジティブに物事を捉えていただきたい。

ハゲの概念

世の中、男女問わず髪の毛が薄い人多い人さまざまである。

先日、電車に立っていた中年男性の頭髪を見て色々考えさせられた。

では、いわゆる”ハゲ”とはどのような状態を言うのだろうか?

丸坊主は「スキンヘッド」、毛量が少ないのは「薄毛」。諸説あるが、私がある美容師に聞いた内容では「地毛で頭皮を覆い隠せる状態はハゲとは言わない」だ。

その逆、つまり「地毛で頭皮を覆い隠せなくなった状態」がいわゆる”ハゲ”であると。

ハゲの要因としては、遺伝的なもの、ストレス過多、病気などがあげられるが、仮に残りの毛髪ではどうにもならなくても、医学的な治療、植毛、ウイッグ装着と、改善策や見せ方の工夫も多く存在する。

結局私は何が言いたかったのか?

それは2つある。

1つ目は、”安易に相手にハゲと誹謗中傷すべきではない”ということ。

2つ目は、”ハゲてるのかも?と思っても決してネガティブになる必要はない”ということだ。

今のところ私は大丈夫だか、万人にその可能性はあるわけで。

深刻に悩んでいる人へ。このブログを読むことで、少しでもポジティブになっていただきたい。

アイメッセージ

まだまだコロナ問題は継続であり、ストレスフルな生活を送っている人は少なくないだろう。

いつもならスルーできるはずの些細なことに対しても、余計なことと分かりつつ相手にあたってしまうこともしばしば。

「遅れるなら連絡くらいできたでしょう!」

「10分遅れただけじゃないか!これでも急いで仕事を終わらせてきたんだ!」

こうなったら売り言葉に買い言葉、悪化する一方だ。

しかし、こう言えばどうなっていたか?

「いつもあなたは待ちあわせに遅れたことなかったから、私、かなり心配しちゃった。次から遅れる時は連絡ちょうだいね。その方が安心できるから」

どうだろうか?これなら言われた方も申し訳ないという気持ちが芽生え、改善の方向にいくのではないか?

「あなたが、悪い」これはユー(YOU)メッセージであり、

「私がしんどい、不安」これがアイ(I)メッセージである。

ちょっとしたやりとりでも思考をポジティブにしていただきたい。

 

空間補完効果

ワクチン接種が始まり出したが、世間ではまだまだコロナ問題は終息していない。

それに伴い、ある現象が発生している。

それは「美男美女が急激に増えた」ことだ。

厳密に言えば「美男美女に見える人が増えた」ということなのだが。

果たして皆さんにはその認識がどこまであるだろう?

ちなみに人間には見えない部分を都合よく想像してしまうところがあり、それを「空間補完効果」という。

確かに、顔のパーツは他にも鼻や口元や輪郭があるわけで、目元だけでは情報量が少なすぎる。

また、顔の印象とは、いかにトータルバランスであるかを証明しているとも言える。

近い将来、またマスクにそれほど頼らない生活が待っているはず。

入学後や入社後、かなり期間が経過しているにも関わらず、まだはっきり顔を見ていない方々、マスクをとった時は改めて挨拶をしよう。

余談であるが、見た目に惑わされず、是非中身も重視していただきたい。

認知的不協和

「認知的不協和」とは、個人の持つある認知と他の認知の間に矛盾や不調和が生じ、それを解消させる為に認知や行動を変化させる理論である。

これはアメリカの心理学者、レオン・フェスティンガーによって提唱された。

この有名な例としては、

「タバコが有害なものとの認識があるにも関わらず、やめられない」という認知の矛盾である。

これが一致すると「有害だから禁煙する」になるはず。しかしニコチンの作用でそうそう簡単にはやめられないので、喫煙者は「やめる(禁煙する)」変化よりも、「有害なものではないはず」との情報を集めだす。そっちのほうが楽だからだ。

これはつまり、「タバコは有害ではないから喫煙していても大丈夫」との一致を導き出したいが為に、「それを証明する情報を収集する」という行動に至った結果である。

次に良い例を述べたい。

例えば「しんどいと思うときや憂鬱な時に笑顔を作る」ことだ。

朝学校や会社に行く、これらが憂鬱な時、鏡では冴えない顔の自分を見る。この時点では矛盾は生じていない。

一方、朝気持ちはしんどいのに、鏡の自分を笑顔にする。これは「矛盾」に該当する。

こうなると脳が違和感をいだき、しんどかった気持ちが、笑顔の自分に引っ張られ、いつの間にか気持ちも楽になっていく。

他にも「根拠なき自信」の重要性を説く著名人も多い。

これは自信がないから「何事もうまくいかない」というネガティブな現実と、根拠もないのに「何だかうまく行く気がする」というポジティブシンキングの矛盾の状態をあえて作り出すことによって、自然と努力する方に向かい、成功する可能性が高まるという例である。

これらをうまく利用すれば、人生はより良いものになっていく。

ぜひ試していただきたい。